九螺ささら『神様の住所』読んだこと考えたこと

 以前、寺山修司の対談集を読んでいたら寺山が頻繁に、作者は世界の半分を提示し読者が半分を想像力で補完して世界の円環構造が完成するような短歌が一番良い、というようなことを述べていた。同じ対談集で寺山は、人間は不連続で部分的な存在であると述べている。部分的な存在なので、人間は世界の全てを把握することはできない。そこで、人間は自分で自分の世界を作る。それを描写したのが短歌となる。そして、作者は自分の世界の神となる。ここで先程の、作者は世界の半分を提示するという表現に少し訂正を加えたい。寺山修司寺山修司全歌集』(講談社学術文庫、2011)に収められている穂村弘の解説によると、寺山修司の短歌の特徴は、「作者という名の神」の視点によって「完全にコントロール」された作中世界が描写されている点にある。つまり、作者は自分の世界を全て把握しており、短歌によってその世界での出来事を提示している。それは世界の半分を提示するというものではなく、世界の部分における全てを提示するというものである。それ自体はある意味閉じた世界である。しかし、寺山の短歌は、読者がその提示された世界を解釈することによって、いわば作者と読者の共同作業によるもうひとつの世界を生み出す。この世界こそ冒頭の寺山の発言に出てくる世界である。このような短歌観は寺山修司によって打ち立てられ、その後脈々と短歌界に受け継がれてきた。
 そんな中、それを打ち崩すように現れたのが九螺ささら『神様の住所』(朝日出版社、2018)である。本書は84のテーマに対し冒頭に短歌ひとつ、自己解説のような散文ひとつ、最後に短歌ひとつという形式になっている。この形式こそがこの歌集の最大の特徴である。短歌で始まり短歌で終わりその間にそれらの短歌の意図を説明するような散文が挟まれているこの形式は完全に閉じており、読者に解釈の余地を残さない。読者が作者とともに世界を作り上げるのではなく、読者は完全に作者だけによって閉じられた世界をある種宝石のように扱うのだ。また、世界を閉じることについて九螺は「対」というテーマの散文において「閉じた世界は丸ごと、内包物以外を排除する免疫体となり、己自身である世界を守る」と書いており、言ってしまえば本書は九螺ささらという世界を提示することで84種の免疫体を作り出しているのだ。したがって、本書との付き合い方にはふた通りあるように思われる。ひとつは免疫学者のように84種の免疫体に興味を持ち観察対象にするというものだ。そして、その観察により自らの世界を拡張する。もうひとつは、作り出された免疫体を自分の中に取り込んでしまうというものだ。提示された世界と自分自身の世界を照らし合わせ、重なる部分に効果のある免疫体を自分の中に取り入れる。そして、少し強くなる。
 あくまで体感だが、このような作者による自己世界の提示と読者による観察拡張または融合強化という関係性は今後短歌において広く使われていくようになると思われる。つまり、共同作業の衰退、書き手と受け手の完全な分離をこの歌集は宣言しているように思えてならないのだ。

 

神様の住所

神様の住所

 

 

 

寺山修司全歌集 (講談社学術文庫)

寺山修司全歌集 (講談社学術文庫)

 

 

 

 



Michel Houellebecq "UNE SENSATION DE FROID" を訳してみた

 

Unreconciled: Poems 1991?2013

Unreconciled: Poems 1991?2013

 

 

UNE SENSATION DE FROID

Michel Houellebecq

 

Le matin était clair et absolument beau; 

Tu voulais préserver ton indépendance.

Je t’attendais en regardant les oiseaux:

Quoi que je fasse, il y aurait la souffrance.

 

 

冷たさを感じる

ミシェル・ウエルベック

 

その朝は澄み渡っていてお構いなしに美しかった。

君は自立を保ちたがっていた。

私は鳥たちを眺めながら君を待っていた、

なぜなら私が何をしようとも、苦しみは存在するのだろうから。

大前粟生『回転草』読んだこと考えたこと

 突然ですが、あなたは小説を読む際にその場面その状況が視覚的に頭の中に浮かぶタイプですか?ぼくは残念ながらそのような想像力には乏しいのですが、そのような想像力が豊かな方にぜひ読んでもらいたい本があります。大前粟生『回転草』(書肆侃侃房)です。これは10の短編小説からなる短編集ですが、ほとんどの短編が読者の視覚的想像力に挑んできます。挑んでくるというか、破壊しにきます。ぼくは乏しい想像力のおかげで大丈夫でしたが、おそらく豊かな想像力の持ち主は気が狂ってしまうのではないでしょうか。自分の乏しい想像力に感謝するとともに少し残念な気持ちもあります。
 では、どのようにしてこの短編集は読者の想像力を破壊しにくるのでしょうか。まず例えば、表題作「回転草」の主役は西部劇でよく転がっている(と思われている)タンブルウィード、つまり回転草という植物です(と思われている、と書いたのは、先日恵文社一乗寺店で行われたトークイベントで大前粟生が実は西部劇を観たことがないということが発覚したからです)。そしてこの短編の中ではそのタンブルウィードが人間の言葉を喋ります。またその次に収録されている「破壊神」では回転草たちがアイドル活動をしています。大丈夫ですか、ついてこられていますか?これらはまだ設定の妙と言えるところで、視覚的想像力は無事だと思います。次に、視覚的に想像しにくいものたちの例を出してみます。まずは「生きものアレルギー」に出てくるおとうさんです。彼は生きものアレルギーであり、症状が悪化しないように頭にゼリーの立方体を被っています。そのゼリーはもとは透明で水色なのですが、おとうさんは空気穴から手を入れて顔にできたいぼを潰してしまうのでいぼから血が出てゼリーが赤黒くなり魚の煮凝りのようになってしまっています。頭が魚の煮凝りに包まれている人間の姿をあなたは想像できますか?たしかに想像はできるかもしれません。しかし、その奇妙さ、言ってしまえばグロテスクさは確実に読者の脳みそを攻撃してきます。ネタバレになるので詳しくは書けませんが、物語の中盤でさらにグロテスクな絵面をぶん投げてきます。ぼくはその辺りで心の健康のために想像力を停止させました。この例は、想像することは可能ですが心が耐えられないために想像力が戦略的撤退をするようなものです。次の例は、そもそも想像力が戦場に出ることすら許してくれません。「わたしたちがチャンピオンだったころ」では、1年に1度、「だれが一番カレーをおいしくたべることができるのか」を決める大会が開かれます。まあそんな大会も世界のどこかでは開かれているかもしれませんし、開こうと思えば開けると思いますので、ここでは深く言及しないでおきましょう。問題は、その大会の会場が前回のチャンピオンの家であり、参加者はその町に住む全員、数にして16077人であるという点です。はい、想像してみてください、普通の一軒家に16077人が入ってみんながカレーを食べている姿を。無理。ぼくには無理です。
 これらの短編は小説の可能性のように思われます。風景があってそれを文字で模写するのではなく、小説というオリジナルなものしか存在させない。言ってしまえば、小説にしかできないことをやってのけているのです。視覚的想像力を刺激するための小説は、写真や映画などの登場により現在、魅力を失ってしまっているように感じます。そのような中で、視覚的なものに還元できない物語を提供することが今の小説に求められていると思います。それは大きくふたつに分けられます。ひとつは、綿密な分析をもとにした心理小説のような非視覚小説、もうひとつは、まさに上に例に出したような反視覚小説です。そうであるので、『回転草』は今後の小説界を担っていくであろう大前粟生の立ち位置を明確に示した短編集だとぼくは思うのです。

追伸
 『回転草』の反視覚的な面だけに注目してレビューしましたが、この短編集を語る上で現実に対する「絶望」というキーワードは外せないと思います。そうであるので、現実に違和感を持っていて生きづらさを感じている人にはぜひ読んでもらいたいです。

 

 

回転草

回転草

 

 

 

Michel Houellebecq "(Par la mort du plus pur)" を訳してみた

 

Unreconciled: Poems 1991?2013

Unreconciled: Poems 1991?2013

 

 

(Par la mort du plus pur)

Michel Houellebecq

 

Par la mort du plus pur

Toute joie est invalidée

La poitrine est comme évidée,

Et l’œil en tout connaît l’obscur.

 

Il faut quelques secondes

Pour effacer un monde.

 

 

(最も純粋なものが死んで)

ミシェル・ウエルベック

 

最も純粋なものが死んで

あらゆる喜びは力を失い

胸はまるでくり抜かれたようだ、

そして目は暗さというものを完全に知る。

 

ほんの少しの時間があればいい

世界を消し去るためには。