恋人の即興話:題「刺身一家、海に行く」

 このまえ恋人と海水浴をしたあと、居酒屋で刺身を食べているときに「刺身というお題で即興話をしてください」と頼んだら、恋人が10秒ぐらい考えたあとにしてくれた即興話を記憶をかぎりに文字起こししてみたものが以下に書かれる物語です。

 

 

 むかしむかしあるところに刺身の家族がいました。父と母と息子の3人家族でした。

「夏らしいことがしたいよ〜!」

 夏休みが終わりに近づくなか、刺身の息子がおおきな声で言いました。刺身のお父さんとお母さんは顔を見合わせました。お父さんはずっと仕事をしていて、今日はひさしぶりの休日でした。

「たしかにどこかに行きたいね」

 刺身のお母さんが言いました。

「じゃあ海に行ってみるか」

 刺身のお父さんは言いました。

「海!? やったー!!!」

 刺身の息子はとてもよろこびました。なぜなら海に行ったことがなかったからです。

「海だ!!! でもぼく泳げるかな……?」

 刺身の息子は不安げな様子です。

「大丈夫。お父さんが教えてあげるよ。お父さんはこう見えても刺身になるまえはいくつもの海を渡り泳いでいたんだ。なあ母さん」

「そうよ。サメに襲われたときに一目散に逃げていくお父さんの姿にわたしは惚れてしまったのよ。あれは格好良かったわねぇ……それからいろんな海を一緒に旅したわね……いつもわたしを危険から守ってくれて」

「よしてくれよ母さん。照れるだろう」

「も〜〜〜惚気話はいいからさ! はやく海に行こうよ!」

 刺身の息子の一声で一家は海に行く用意を始め、海に向けて出発しました。

 刺身の一家が海に着きました。

「お父さんたちは砂浜にパラソルを立てて場所取りをしとくから、先に水際に行って水に慣れときなさい」

 刺身のお父さんが息子に言いました。息子は「わかった!」と言って一目散に海に向かって駆けていきました。

「ひとりで行かせて大丈夫?」

 刺身のお母さんが不安げに尋ねました。

「大丈夫さ。あいつももう一人前の刺身だよ」

 刺身のお父さんは答えました。

 刺身のお父さんとお母さんがパラソルを立てていると、水辺の方が騒がしくなってきました。

「なんだなんだ」

 刺身のお父さんがその方向に注意を向けると声が聞こえてきました。

「溺れている子がいるぞ! どんどん沖に流されてる!」

 刺身のお父さんが「まさか!」と思って海の方へ視線を向けると、刺身の息子の頭が沖の方で水面から出たり入ったりしているのが目に入りました。

「大変だ! 息子が溺れてる!」

 そう叫んだ刺身のお父さんは一目散に海に駆け寄り飛び込みました。全力を振り絞って前へ前へ、息子の方へと泳いでいきました。俺はいくつもの海を渡り泳いで、サメからも逃げ切った男だぞ! 自分を鼓舞して息子の方へ泳いでいく刺身のお父さん。しかし、次第に体が痺れてきました。

「う、塩水が体にしみる……なんでだ! 昔はこんなんじゃなかっただろ!」

 段々と体が動かなくなっていく刺身のお父さん。その姿を浜辺から見ていたお母さんはいてもたってもいられなくなって海に飛び込んで泳ぎはじめました。

 その翌日、新聞には今年も海難事故が多発していることを警告する記事が載りました。

 

おわり

共通テスト2022国語現代文の解き方

あくまで自分はこう考えた、ということであってこの解き方が絶対正しいというわけではないです。あと、間違っている可能性もあるので、何かお気づきの点があればコメントなどでお知らせしていただけると非常に助かります。

問題と解答は朝日新聞デジタルに掲載のものを利用しました。

www.asahi.com

 

第1問(檜垣立哉『食べることの哲学』と藤原辰史『食べるとはどういうことか』)

問2
まずは傍線部に「ここから」と「つぎのように」という言葉があることに注目し、この問題に解答するためには、傍線部の前と後のどちらにも目を向けなければならないということを把握する。またその結果、選択肢の前半が傍線部の前、後半が傍線部の後と対応しているのではないかと予想を立てる(あるいは選択肢を先に見てから本文を読む手法を取っているなら、選択肢の「よだかは、」以下の部分に読点がひとつだけあることに注目し、選択肢がふたつの要素から構成されていてそのふたつを本文から拾ってくればいいと予想を立てる。以下同様)。


傍線部の前を見れば、「だがどうして自分は羽虫を「食べる」のか。なぜ自分のような存在が、劣等感をもちながらも、他の生き物を食べて生きていくのか、それがよいことかどうかがわからない」と書かれている。すなわち「よだか」は、自分が他の生物を食べて生きていくことに正当性があるのかどうか分からない(=悩んでいる)。


傍線部の後を見れば、「自分は何も食べず絶食し、空の彼方へ消えてしまおう」という風に「よだか」の考えの「転変」(=展開)が示されている。


これらふたつに適する選択肢①が正解。「〜苦悩し」までが傍線部の前、それ以降が傍線部の後に対応している。


おそらく選択肢⑤と迷った人が多いのではないかと思われるが、第一に⑤には生きることに関する記述がない。第二に、この設問はあくまでも「よだかの思考の展開」が問われているのであり、「よだか」が(本文末で示唆されているように)結果として「数億年数兆年彼方の星に、自らを変容させ」たとしても、そのことを「よだか」が思考(あるいは志向)したと本文から読み取ることはできない。


ポイントは、傍線部前後の引用に目を向けないことである。というのも、ここで問われているのはあくまでも、「筆者はよだかの思考の展開をどのように捉えている(と問題作成者が考えているか)」であり、解答者がわざわざ引用部を読解する必要はないからだ。

 

問3
まずは傍線が一文の途中から引かれているので、その傍線を上に伸ばし、「それは、〜」からの一文全部を傍線部だと捉える。そうすると、この設問は「それ」の内容を尋ねていると予想できる。


「それ」が直接指しているのは、前文の「心がキズついたよだかが、それでもなお羽虫を食べるという行為を無意識のうちになしていることに気がつき「せなかがぞっとした」「思ひ」をもつ」である。この設問で本当に問われているのは、この部分の内容把握である。そして内容把握のためには、本文中で同じ表現が使われている箇所に目を向けるのが鉄則だ。そうすると2段落前の末に同様の表現が見つかる。そこでその段落を見てみると、よだかの「せなかがぞっと」するまでの流れが説明されている。すなわち、自分が生きていることへの疑問→自分が無意識に羽虫や甲虫を食べていたという気づき→「せなかがぞっとした」「思ひ」、という流れである。つまり、「それ」というのは、①心が傷つき自分が生きることに正当性を見出せないよだかが、②それでも無意識に食べることをしていたということに気づき、③ぞっとする、という経験である。


これら3つの要素が全て含まれている選択肢②が正解。選択肢のふたつの読点で区切られた3つの部分に、最初から順に先述の流れ①②③が当てはまる。選択肢②内の「自己に対する強烈な違和感」は「自己矛盾」と言い換えれば、先述の流れ①と②のあいだに矛盾がある点と合致する(「感じつつも」や「それでもなお」という表現に注目)。


おそらく選択肢④と迷った人が多いのではないかと思われる。その原因は、「ぞっとした」という表現から「罪の自覚」に発想が飛んだからだと予想される。罪の意識の話が本文でなされていないので間違いだと言えばそれまでだが、④を選んでしまった人は、おそらく傍線部の前文にしか目が向いておらず、そこからさらに同表現が用いられている箇所を見つけて参照するということができていなかったのではないかと考えられる。後者の箇所に目を向ければ、上述の説明通り、よだかが自分の生に疑問を抱いていることが重要だということが分かり、選択肢④の3つの部分のうち、ひとつ目の部分が適当ではないと判断できる。あるいは問2に解答する中で、筆者の関心はよだかが虐げられていることではなく、自らの生に疑問を感じていることだと問題作成者がみなしているということを把握できていれば、選択肢④が論点のズレた選択肢だと気がつけるだろう。


ポイントのひとつ目は、何を問われているかを正確に把握することである。たとえば本設問では、傍線部の前文の内容把握を求められている。ポイントのふたつ目は、同一の単語や表現を手がかりに、内容把握をしたい箇所と関連する文章を本文中から見つけるということである。たとえば本設問では、上でも述べたが、「それ」が傍線部の前文だと気がついただけで止まってしまうと、生きることへの疑問が重要であるということを見逃してしまう。また、手がかりなしに全文を読み返すことは時間の無駄である。

 

問4
これは簡単。「一つ目」の段落と「二つ目」の段落を見比べると、共通の語彙が「通過」と「循環」であることが分かる。そして、その「循環」が「二つ目」の段落で「バトンリレー」に例えられていることに気がつけばいい。


「循環」=「バトンリレー」を「命の受け渡し」と言い換えている選択肢②が正解。


一応他の選択肢を見ておくと、「一つ目」の段落で「微生物」「消化」の話がなされていないので①③⑤は不適当。どちらの段落でも「人間」の生死の話をしていないので④は不適当。とはいえ、消去法で解くような問題ではない。

 

問5
これは消去法で解けばよいだろう。


①    心情は書かれていない。絶対不適当。
②    選択肢中の「比喩的」と「厳密」が両立不可能。絶対不適当。
③    擬態語は用いられているがふたつだけである(「ドロドロ」「くねくね」)。また「特殊な仕組み」というのが何と比較して「特殊」なのかが不明。多分不適当。
④    比喩は「多用」されていると言ってよいかもしれない。たしかに「生きものが他の生物の栄養になるまでの流れ」が説明されているし、その仕方が軽妙だと言ってもいいかもしれない。多分適当。
⑤    生きものも物質では? また、「誇張」と「鮮明」の相性が悪い。多分不適当。


以上より、いちばん適当度が高そうな選択肢④が正解。

 

問6
(i)文章Ⅰにおいて、食べることが生きることと関わっていたことを思い返せばいい。


選択肢②が正解。

 

(ii)この設問の選択肢は、ひとつ目の文の前半で文章Ⅰについて言及し、後半で文章Ⅱに基づいて解釈を加えている。そしてふたつ目の文では、それを踏まえて「Mさん」の推論が述べられている。このことを踏まえて消去法で解く。


①    「食べる」ことの話なので、「自他の生を昇華させる行為」に言及しているのがおかしい。絶対不適当。
②    ひとつ目の文の後半がおかしい。文章Ⅱにおける「食べてなどいない」とは「食事行為をしない」ということではない。絶対不適当。
③    ひとつ目の文では要するに、食べることには生命の「循環」という「意味」(=「役割」「機能」)があると述べられている。これは文章Ⅱの主張と合致する。ふたつ目の文は、無意識に食べてしまうのは生命に「生きることへの衝動」があるからだとした上で、それは「循環」の単なる一条件ではなく必須条件であると述べている。多分適当。
④    文章Ⅱに「序列」の話はない。また、文章Ⅰは「食物連鎖」の話に主眼を置いていない。絶対不適当。


以上より、選択肢③が正解。これは正解の選択肢以外が絶対に不適当なので、選択肢③を読み解けなくても正解することはできるだろう。この設問は一見、推論の妥当性を問う問題に見えるが、実は間違いの選択肢における推論の根拠となる部分や主題の捉え方に明白な誤りが含まれており、そこに気がつけばよいという問題である。わざわざ、推論の妥当性を検討するなどという難易度の高いことをしなくてもいいのである。

 

 


第2問(黒井千次「庭の男」)

問1
行動の要因(=原因)を問われているので、その行動に至るまでの「私」の心情に注目すればよいと分かる。

 

まずは傍線部を分析して、「私」の行動を正確に掴む。そのようにして「私」の行動を要素に分けると、「ほとんど無意識のように」「彼(=隣の少年)の前に立っ」たというふたつの要素から「私」の行動が構成されていることが分かる。つまり問われているのは、なぜ隣の少年の前に立ったのか、と、なぜそれが「無意識」に行われたのか、である。

 

その観点から傍線部より前の部分を見返せば、「私」はどのように隣の少年に看板をどかすように頼むべきか分からず(第1段落)、しかし看板のせいで落ち着けない(第2段落)のでどうにかしてほしいが、かといって少年の親に頼むのもフェアではないと考えている(第3段落)ことが分かる。つまり、隣の少年の前に立ったのは、看板について直接隣の少年に頼むべきだと「私」が考えていたからであり、それが無意識のうちに行われたとは、まだどのようにすべきか思いついていないにもかかわらずそのような行動をしてしまったということである。


前者が選択肢②、後者が選択肢⑥に当てはまる。


選択肢④の内容はたしかに本文中に書かれているが、「安心できなかった」という理由は、意識的に隣の少年に頼んだり、あるいは直接隣の少年に頼まずに親に連絡したりするという行動に帰結する可能性がある。それとは違う行動をなぜ無意識のうちにしてしまったのかを問うこの設問の解答としては不適当である。
ポイントは、傍線部を分析してふたつの要素を引っ張り出すこと。

 

問2
傍線部の後が、「厭な痛み」を和らげる方向に展開しているので、ここではまず傍線部の前を見る。すると「一応は礼を尽して頼んでいるつもりだったのだから、中学生の餓鬼にそれを無視され、罵られたのは身に応えた」と書かれており、無視されたことと罵られたことが「厭な痛み」の原因だと分かる。


このふたつが唯一どちらも含まれている選択肢①が正解。「存在が根底から否定されたように感じた」は言い過ぎのように感じるかもしれないが、傍線部の2行後で「しかしそれなら、彼は面を上げて私の申し入れを拒絶すればよかったのだ」と「私」が考えていることから、「私」にとっては無視されたことが不快感のいちばんの要因であると分かり、無視とは存在の否定だと考えれば、積極的に不適当だとは言えない。


おそらく選択肢②を選んだ人が多いと思われるが、少年の言葉「ジジイ——」を「批判」と捉えることは難しい(実際、傍線部の4行後に「罵言」と書かれている)。

 

問3
心情を問われているので、まずはその心情の要因となった行動あるいは状況を把握する。①まず、「私」は唐突に看板のところに向かう。②次に、看板の素材が特殊でかつ厳重に固定されていることに気がつく。③最後に、隣の少年に覚悟があると認めてやりたい気持ちになっている。以上の②と③が含まれている選択肢③が正解と予想される。


消去法的には、


①    「私」が何らかの決意をしたという描写はない。絶対不適当。
②    「認める」に応援するというような意味はない。加えて、選択肢内に「私」の心情の原因が書かれていない。絶対不適当。
③    「認める」には存在を確認するという意味と受け入れるという意味がある。少年に覚悟が存在することを「確認」し、その覚悟を「受け止める」という風に傍線部を言い換えることは不可能ではない。多分適当。
④    選択肢内で少年の「覚悟」について触れられていない。絶対不適当。
⑤    「認めてやりたい」といういわば上から目線な表現から悔やむ心情を読み取ることは難しい。多分不適当。


よって、選択肢③が正解。


ポイントは、心情を問う問題の正解の選択肢には、なぜその心情に達したのかという原因が含まれている場合がほとんどであること。ゆえに、心情を問われた際にはその心情に至るまでの行動や状況を把握することが重要である。

 

問4
(i)消去法で解けばよい。


①    20ページで隣の少年に対して「馬鹿奴」と述べており、親しみを感じているとは言えない。絶対不適当。
②    20ページ5行目に「一応は礼を尽して頼んでいるつもり」と書いてあり、「君」という呼び方が礼儀に基づくものだと推測できる。また、20ページ末から4行目に「怒り」と書いてあり、「餓鬼」という呼び方が怒りに基づくものだと推測することは不可能ではない。多分適当。
③    「餓鬼」という呼び方の付近に少年の外見に対する言及はない。多分不適当。
④    若さを羨む描写はない。絶対不適当。
⑤    「裏の家の息子」という呼び方は妻によるものである。絶対不適当。


したがって、選択肢②が正解。

 

(ii)消去法で解けばよい。


①    根拠部に不適当な部分はなく、「余裕をなくして表現の一貫性を失った」という推論も妥当に思える。多分適当。
②    「あのオジサン」と敬意は結びつかない。絶対不適当。
③    妻に対して看板を「案山子」と呼んだという描写はない。絶対不適当。
④    第3段落から、「私」が看板を人間のように意識していることを他人には隠したいと考えていることが分かる。多分不適当。


したがって選択肢①が正解。

 

問5
(i)窓から見える看板を「私」が恐れていることは説明の必要がないだろう。近くで見た看板に対する「私」の反応は二重傍線部の2行前に「そんなただの板」と書かれており、恐怖は消失している。したがって前者には、実際に案山子が雀を脅しているアとaが当てはまる。後者には、案山子の脅威が消失しているイとbまたはcが当てはまる。


したがって、選択肢①が正解。(エ)はアとcの組み合わせなので不適当。

 

(ii) 設問に「【ノート】を踏まえて」と書かれているので、上記のアaからイbへの変化に注目する。すると、選択肢④と⑤が残る。選択肢④は変化の原因を「暗闇に紛れて近づいたこと」としているが、「暗闇」でなければこの変化が起こらなかったと考えることは難しく、余計な言葉に思える。


したがって選択肢⑤が正解。

補遺:ウエルベックにおける悲観主義という戦略と可能性の感受

先日、『人文×社会』という電子雑誌の創刊号に論文を載せていただいたのですが、書き落としたことや掲載後に思いついたことなどがあったので補遺という形でここに書きたいと思います。

 

jinbunxshakai.org

ぼくの論文はこちらから読めます。『「言い表しえぬもの」としての愛の理想――ミシェル・ウエルベックの小説における理想の不描写をめぐる試論』という題目です。

 

まず、書き落とした点。

p.222でウエルベックが自身の悲観主義を楽観主義からの脱却を促すためのものだと認識していることを示したが、ウエルベックが楽観主義を否定し、悲観主義を肯定する文章には、« Jacques Prévert est un con »*1もある。ウエルベックはフランスの国民的詩人ジャック・プレヴェールを「馬鹿」imbécile と呼ぶ。それは、プレヴェールが楽観的でリバタリアンだったからだ。楽観的であることは知性の欠如の結果と捉えられる。知性が欠如しているから自由主義の幻想に基づいてしか世界を見ることができない。ゆえに「馬鹿」なのである。

知性が良い詩を書くために役立つことは決してない。しかしそれは悪い詩を書くことを防いでくれる。ジャック・プレヴェールが下手な詩人であるのは、何よりもまず彼の世界観が平板で表面的で誤っているからだ。[…]哲学の面でも政治の面でも、ジャック・プレヴェールは何よりもまずリバタリアンである。言い換えるなら、完全に馬鹿である*2

逆にウエルベックによって評価されるのは、アルトーシオランボードレールマルクスである。ウエルベック曰く、マルクスの言うような「利己的な計算で凍った水」を、欲望の力を解放することで温められるとは到底考えられない。ウエルベックにとって、楽観主義とは自由を盲目的に信仰することであり、悲観主義こそが自由という幻想から逃れて現実を見つめるために必要な態度なのである。このように考えると、ウエルベック悲観主義は、Wesemael が言うような*3時代の病なのではなく、楽観主義に対抗するひとつの戦略なのだと言えるだろう。

 

次に、後から思いついた点(アイデア程度)。

拙論文の主張は、ウエルベックが理想の愛の存在可能性を読者にほのめかしているというものだった。論文中では、この「可能性」がなぜ重要なのかについて深く述べることができなかったので、ここで補足説明させていただく。その際、目をつけるべき小説は『ある島の可能性』だ。

この小説において、マリー23にそしてダニエル25に「住居を、習慣を、人生を捨てさせ」*4て新しいコミュニティを探す旅に向かわせたのは「ある島の可能性」であった。確かに、物語の途中からダニエル24や25は現状に疑問を抱くようにはなっていた。換言すれば、幻想から徐々に脱していった。しかし彼らが現状から脱するために何か行動を起こすことは物語の終盤までなかった。つまり「可能性」を感受してはじめて彼らは行動することができたのである。ここに「可能性」の重要性がある。行動を起こすためにはそれが必要不可欠なのである。

ただし注意しなければならないことは、その「可能性」が一元的な理想になってしまうことだ。このことに対するウエルベックの注意が、結局ダニエル25が新しいコミュニティに辿り着けないという結末をもたらしている。それは外部の消滅を強調し無力感を煽るバッドエンドではない。ウエルベックは自らに新しいコミュニティ=資本主義社会の代替物を描くことを禁じているがゆえの結末なのである。なぜなら、それは読者自身が幻想から抜け出して思い描かなければならないものだからだ。上述の話にここで戻れば、我々は代替物を思い描く前にまずは楽観主義から脱しなければならず、そのためにウエルベックが採用する手段が悲観主義なのだと言えるだろう。また、たとえ新しいコミュニティに辿り着けないとしても、「可能性」を感受し行動した結果として、ダニエル25は「愛」や「無限」を理解する。それらは行動しなければ理解することのなかったものだ。到達できなくともその過程でしか新たに理解できないことがあるのだ。

以上のことより、ウエルベックにとって「可能性」を感受することが重要であることが明らかになった。

 

*1:HOUELLEBECQ, Michel, Houellebecq. 2001-2010, Flammarion, « Mille&unepages », 2016, pp.833-838. 初出は1992年。

*2:Ibid., p.837.

*3:van Wesemael, S., 2019. Sérotonine de Michel Houellebecq : prédiction du destin tragique de la civilisation occidentale.  RELIEF - Revue Électronique de Littérature Française, 13(1), pp.54–66. 紹介記事を書いていますのでそちらを参照してください。

*4:ウエルベック, ミシェル(中村佳子訳)『ある島の可能性』、河出文庫、2016、p.473

論文紹介|Wesemael, Sabine van(2019)≪Sérotonine de Michel Houellebecq : prédiction du destin tragique de la civilisation occidentale≫

 

訳題
ミシェル・ウエルベックの『セロトニン』:西洋文明の悲劇的運命の予言」

 

出典

van Wesemael, S., 2019. Sérotonine de Michel Houellebecq : prédiction du destin tragique de la civilisation occidentale.  RELIEF - Revue Électronique de Littérature Française, 13(1), pp.54–66.

www.revue-relief.org

 

著者紹介

Sabine van Wesemael


博士。現在アムステルダム大学の Assistant professor。主な研究テーマは、フランスのモダニズムと現代小説。プルーストの研究を行う一方で、ウエルベックに関する論文や著書も多くある。

dr. S.M.E. (Sabine) van Wesemael - University of Amsterdam

 

要約
 ウエルベックは、『ある島の可能性』のヴァンサン*1と同じように、社会とのあいだに一線を引いている。一方で彼とは異なり、作品で社会を批判している点で政治的である。つまり、彼は「社会参加する作家」auteur engagé というよりもむしろ「巻き込まれた作家」auteur impliqué *2である。たとえば、理想主義者が失望する様子*3を描いてサルトル的「アンガジュマン」engagement を批判する一方で、資本主義的価値観を批判する*4彼の小説には啓蒙的意図がある。同時代の社会を分析し、その問題点を指摘している点でウエルベックは「巻き込まれた作家」である。しかし、そうして明らかにされた問題点に対してなす術はなく、社会あるいは人生から「離脱」désengagement するしかないとされるため「社会参加する作家」とは言えない。さらに、ウエルベックは「大きな物語」による全体化を嫌っており、「大きな物語」を掲げる「一元的なアンガジュマン」engagement univoque に不信感を抱いている。
 ウエルベックの小説で強調されるのは、自己や他者、社会からの疎外である。自衛のために『セロトニン』の主人公フロランは冷笑的になり、あらゆるアンガジュマンを否定する。生への積極的参加も否定される。ウエルベックは現代資本主義の生きづらさのなかでは精神が衰退し生存本能すら失われることを示す。
 ウエルベックの社会批判は、自身の攻撃する規範や価値に対して登場人物たちが代替物を示せない様子を描くことで辛辣さを増している。一方、ウエルベックは過去のインタビューで、メディアが生み出す幻想に対抗するために皮肉や否定的態度、冷笑を持ち出すことは容易だが、それを乗り越えて、誠実かつ肯定的な言説を生むことは難しいとして、あらゆる本当のアンガジュマンは今後不可能だと断言してもいる。しかし、ウエルベック自身もそれらを乗り越えることはできておらず、悲観的な態度を示している。彼にとっては、「大きな物語」も理想も楽観的希望もすべてがまやかしである。それらを信じることを拒否するがゆえに、ウエルベックや彼の小説の主人公たちは政治に関わらない。彼らにとって最重要であることは真実を見つめて現実を示すことである。
 ウエルベックにとって芸術とは、現実の混沌を、人間を引き裂く矛盾をできる限り誠実に表現することであり、それが道徳的かそうでないかは関係ない。ゆえに彼を政治的に位置づけることは困難であるし「社会参加する作家」と呼ぶこともできない。それどころか逆に、疎外状況からはいかなる真正な政治活動も生まれないとして、ウエルベックは作家のアンガジュマンに不快感を示している。ウエルベックの小説の主人公たちは未来にユートピアを求めるが、そのいずれもが混迷している。『セロトニン』においては未来ではなく過去に慰めが求められている。
 フロランは乗り越え不可能なペシミスムに侵されており、それはウエルベックによれば現代人に共通する症候だ。『セロトニン』は無の勝利を宣告し、ウエルベックはふたたび「不吉な予言者」となった。人生に意味を付与する試みはすべて失敗する定めなのだ。

 

 

感想

 ウエルベックは現代資本主義社会を批判するが、何かその代替物となる理想を掲げているわけではない。その意味で、彼は「巻き込まれた作家」と呼べる。というのはおもしろい観点だと思います。積極的に社会に参加しているのではないが、だからといって社会問題を取り扱っていないわけでもないということですね。社会に問題があるなら積極的に「参加」してそれを解決するべきだ、というのがサルトル的アンガジュマンとするなら、それは解決不能なものであるのだから「離脱」するしかない、というのがウエルベック的デザンガジュマンである。しかし、「闘争領域」が「拡大」した現代において、そこからの「離脱」はすなわち「死」であることを示してしまっているのが『セロトニン』である。これがこの論文の主張です。

 ウエルベックを研究するうえでひとつ大きな問題となるのは、批判と絶望だけが刻み込まれた小説が社会を変えることができるのかということです*5。本論文では、否と答えられていると思います。ウエルベックは矛盾と幻想に満ちた現実を描くだけであり、不吉な予言者として捉えられます。彼は、有効な代替物すなわち理想を示さない。本論文に付されたレジュメでは「ウエルベックは代替物を提示できるのか?」という疑問が提起されています。それに対して本文中では明示的に答えが提示されてはいませんが、おそらくその答えは「しない」ということでしょう。その理由は、ウエルベックがあらゆる理想を幻想と見做しているから、そしてそもそも芸術(文学)の役割を代替物の提示だとはウエルベックが考えていないからだとされます。

 しかし以上のことを否定的に捉えるべきではないと思います。なぜか。それはぼくがこの前書いた論文を読んでみてください。ちなみにこの論文の補遺的なものを近いうちにこのブログに載せたいなと思っています*6。とりあえず重要なことは、ウエルベックはぺシミスムを時代の病というよりも一種の戦略と見做しているということです。それは積極的ぺシミスムとでも呼ぶべきものなのです。

 

 他におもしろかったところは、ウエルベックの小説の主人公たちは、受動的な疎外に対して、冷笑的になることで逆に自ら能動的に距離を置いているという見方です。疎外されているのではなく、自分から距離を取っているんだ、というある種の自衛本能として、ウエルベックの小説に特徴的な冷笑や皮肉というものを捉えているのが興味深かったです。

 

 他には、『セロトニン』でフロランが家を探しているときに「ぼくは、からっぽで真っ白、何の飾りのない空間を探さなければならなかった」(274)«je devais rechercher le vide, le blanc et le nu»(330)と書かれているが、これはボードレールの「妄執」Obsession(『悪の華』所収)の «Car je recherche le vide, et le noir et le nu» という詩句を暗示しているのだろうという指摘が興味深かったです。たしかに。noir(黒)から blanc(白)への変更がおもしろい。また、この詩が「憂鬱と理想」Spleen et Idéal という章に含まれていることも注目に値しますね。 

 

 ウエルベックの社会分析が同時代人の特徴をよく捉えている証拠として、リオタールとリポヴェツキーの名が挙げられていました。リポヴェツキーの『空虚の時代』はウエルベックと結び付けられることが多く、ぼくも卒論で参考にしたのですが、かなりおもしろい本でした。ただ、リポヴェツキーの著作の邦訳はそれ一冊しかなくて、しかもそれがかなり難解なのであまり日本人に読まれていない気がします。他の著作も誰か邦訳してくれないかなぁ。

 

 

セロトニン

セロトニン

 

 

ある島の可能性 (河出文庫)

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闘争領域の拡大 (河出文庫)

闘争領域の拡大 (河出文庫)

 

 

 ↑大きな物語の終焉について。

 

悪の華 (集英社文庫)

悪の華 (集英社文庫)

 

 

 

*1:芸術家。活動初期は芸術で世界を変えようとしていたが、失望ののちに、隠居して自分独自の世界を作ることに夢中になる。

*2:auteur impliqué は物語論の用語として「内包された作者」を意味する場合もあるが、この論文では engagé との対比で用いられていると考えて「巻き込まれた作家」と訳した。

*3:たとえば、エムリック。

*4:たとえば資本主義的価値観に染まったユズと過去の交際相手のケイトやカミーユを比較して後者を持ち上げる、など。

*5:トロツキーセリーヌを「あいつは希望を書かないから革命的ではない」みたいに評したらしいですね。

*6:2021年4月7日追記:書きました。

補遺:ウエルベックにおける悲観主義という戦略と可能性の感受 - 鯖寿司が食べたい

菊地匠さんの個展「in Platea」の感想

先日、栃木県は足利市のGALLERY 碧で開かれた菊地匠さんの個展「in Platea」に行ったのでその感想をここに記す。ぼくは芸術の門外漢であるので以下に書かれるのは批評の類ではなくあくまでも感想であるということに留意されたい。

 

(下の文章を読むまえに、菊地匠さんのHP[https://www.kikuchitakumi.com/]で作品や展示風景を見ていただくと良いかと思います)

 

「Platea」はラテン語で「通り、街路」あるいは「中庭」を意味する語であるらしい。本個展は、この一見相反する意味を内包する語とマネの絵画とに共通する特性に対する気づきをもとに構築されている。菊地曰く、マネの絵画は既存のルールを打ち破った、つまり伝統的な絵画表現(対象や形式)の外に出たという点において「通り」性を持つ。さらには、抽象絵画に至る新たな表現形式を生み出した、つまり宗教や神話といった外部の秩序と手を切り芸術の内在秩序に従う新たな場を生み出したという点で「中庭」性を持つ。したがって、マネの絵画には「Platea」性がある。さらに菊地は、「Platea」という語が2世紀ごろには「中庭」という意味を失ったことにも着目する。「通り」と「中庭」、外と内とが重なる場としての「Platea」は遠い昔に失われてしまった。マネもまた現代の我々からすれば遠い存在である。この「隔たり」が「Platea」とマネを重ねる思考を生み出したと菊地は考える。加えて、「Platea」がかつて相反する意味に与えた同一性にベンヤミン的な「楽園」の同一性を見出す。そして失われた「楽園」もまた、現在から隔たったものである。こうして「Platea」という語には「通り」「中庭」「マネ」「楽園」といったイメージが重ねられる......

 

なぜ長々と個展そのものではなく、それを生み出すに至った思考について書いたのかというと、個展「in Platea」がその思考を表現するために精緻に構築されていると感じたからだ。

まず展示方法。展示会場はふたつの部屋からなり、入り口のあるひとつ目の部屋の一面はガラスとなっていて外から中があるいは中から外が見えるようになっている。一方、ふたつ目の部屋は外と隔てられており、壁は中庭から見た景色を描いた壁画で覆われている。つまり、ひとつ目の部屋が「Platea」の「通り」性を、ふたつ目の部屋が「中庭」性を表現しているのだという。この仕掛けを知ったときには体が震えた。知らないうちに「Platea」に足を踏み入れていただなんて。個展というものにはじめて行ったので他がどうなのかは知らないが、展示の仕方まで含めてひとつの芸術作品となっているという事態に感銘を受けた。

そして次に絵画作品。これに関しては本当に好き勝手書かせていただくが、前回の個展(「In Pause.」)に引き続き「隔たり」を思考したそれらの作品は鑑賞者に「宙づり」を促すものであるように思われる。対象物を写実的に描いたのではないそれらを見るとき、まず心に浮かぶのは何が描かれているのか分からないという不安である。人が描かれているように見える。泣いているように見える。いや笑っているようにも見える。いや待て、叫んでいるようにも見える。その絵はまるで鑑賞者がひとつの解釈に足をつけてしまうことを拒否しているかのようである。そのような宙づり状態のまま絵の前に立っていると徐々に、「そこに絵がある」という感覚が生まれてくる。そこで気がつく。もしかすると自分は今まで、絵を見ているはずが情報を読み取っていただけなのではないか、と。「宙づり」がひとつの存在を浮かび上がらせたのだ。絵を鑑賞するということが、ひとつの存在と対峙することであると気がつく。多様性、多重性は分かりにくさを生む。それは不安へとつながり、安易な陸地に足をつけてしまいそうになる。しかしその不安、宙づりにじっと耐えることではじめて、存在を存在として、つまり情報としてではなく存在として受け入れることができるのではないか。それは頭では分かっているつもりのことではあった。しかし今回ぼくはそれを体感した。

さらに、存在自体への讃歌であるような菊地の絵は「in Platea」という個展において、あるいは「Platea」という空間のなかでさらなる意味を持ったように感じる。エルンスト・ブロッホは『ユートピアの精神』を「わたしはある。わたしたちはある。/それで十分だ」と始める。わたしやわたしたちが何であるのかは問題ではなく、まずもって存在しているということ、それこそがユートピアを思考するための条件である、と。ゆえに、そこに描かれているものが何であるか決定することを「隔たり」によって鑑賞者にためらわせることによって存在自体を浮かび上がらせる菊地の絵はユートピアへとつながるものであるように思われる。ここにおいて、過去の「楽園」に対する「隔たり」の感覚は、未来の「ユートピア」に対する「隔たり」の感覚へと転換する。失われた「楽園」とまだ見ぬ「ユートピア」が「Platea」のもとで重なり合う。ならば「in Platea」の会場で、すなわち「Platea」で絵を見つめていたあのとき、もしかするとぼくはユートピアにいたのかもしれない。

 

 

追伸

菊地匠さんはとても良い文章を書く方なのでnoteの方[https://note.com/kikuchitakumi]もぜひ訪ねてみてください。

リモート時代のシマック『都市』|読んだこと考えたこと

 

 

 

 クリフォード・D・シマックの『都市』は1952年に連作短編集としてアメリカで出版された。約70年前の想像力によって生み出されたこの作品は、実のところまさに今読まれるべきものである。なぜか。それは、この作品がリモート技術の発達した世界とそれがもたらす弊害を予見しているからだ。

 

 

 詳しい話の前に、本書の全体の構成を共有したい。

 この連作短編集の体裁は次の通りだ。

 人間がもはや神話上の存在となった未来では、ある人間の発明により知性を発達させた犬族が人間に代わって地球を支配している。そのような世界で、ある研究者(研究犬?)が犬族の起源に関わる伝承と、それを巡る考察を一冊にまとめた。それが本書である。

 我々読者は、なぜ地球上から人間がいなくなったのか、なぜ犬が地球を支配しているのかなどと考えながら作品を読み進めていくこととなる。短編は時系列順に8つ並べられており、それぞれの話の前に犬による注釈「覚え書」が挿入されている。この記事では、その中でも特に第1話から第3話までを扱う。

 その第1話から第3話までかけて描かれるのは、技術の発展による「肉体の離散」「精神の密集」「精神の離散」である。

 

 

 第1話では「肉体の離散」が主に扱われ、その弊害としての「精神の離散」についても触れられる。

 舞台は1990年。世界では水耕栽培が普及し、農地の価格が大幅に下落した。その結果として多くの人々は、安い価格で広い土地を得られる(元)農村へこぞって移住した。その移住を支えたのは交通手段の変化である。原子力の平和利用により安価になったヘリコプターや飛行機をひとりひとりが所有するようになった。このようにして都市からは人がいなくなり、人々は地理的に離散した。

 このことには思わぬ利点があった。それは、都市というものがほぼ消滅したせいで、戦争がしにくくなったということだ。つまり、原子爆弾を投下しようにも、都市に人はおらず、工場はあちこちに散らばっているため、効果的な投下目標を定めることができないのだ。登場人物のひとり、ジョン・J・ウエブスターは次のように言う。

 大多数の諸君は、諸君の都市に人がいなくなったからこそ、今日なお生存していられるのです。

 さて、この都市の滅亡状態は今後もなおこのまま存続させたいものであります。滅亡はまことに幸いなことであり、人類の歴史上最もよろこばしい事件と申すべきであります。*1

ちなみに歴史というのは皮肉なもので、この第1話が雑誌に掲載されたのは1944年である。

 しかしもちろん欠点もある。家と家の間隔は止まることなく広がり、通りすがりの挨拶や井戸端会議なども消えてしまった。近所付き合いが減り、新自由主義的な個人主義が拡大する。そして最後に残るのは「孤独」である。

 

 

 第2話では、「肉体の離散」による「精神の密集」という弊害が描かれる。

 舞台は2117年。居住地の拡大傾向は続き、人間は火星にも進出する。火星には火星人が先住民として存在しており、彼らは哲学の面で人間より優れている。人間は科学技術を火星に輸出し、哲学を火星から輸入することで両者の間には平和な関係が築かれている。

 この時代にはVR技術が発達しており、あらゆる感覚をバーチャル空間で味わえる。つまり、実際に外に出歩かなくても、まるで本当にそうしているかのように旅行ができるし、人と会うこともできる。

 しかしそのようなリモート生活は思わぬ弊害を生む。「広場恐怖症」である。これはある種の強烈なホームシックであり、発症すると、人の密集する場所へは行けなくなり、住み慣れた家から離れることもままならなくなってしまう。なぜなら、自分の人生、あるいは自分の一族の人生のすべてがひとつの場所に密集することにより、精神が「家」に囚われてしまうからだ。このようにして、移動の不要化を伴う「肉体の離散」は「精神の密集」を引き起こす。たとえば、第2話の主人公であり、優秀な医者であるジェロームは、ある火星人を救うために火星に向かうことを要請されるが、「広場恐怖症」のため、なかなか出発の決意を固めることができない。土地が、家が、家財道具が、彼を引き止めるのである。彼が火星に行けたのかどうかは、ぜひ本書を読んで確かめていただきたい。

 

 

 第3話で描かれるのは、「肉体の離散」による「精神の離散」である。

 この話の時代には、第2話で出てきたジェロームの孫、ブルースの研究により一部の犬が人間の言葉を理解し話すことができるようになっている。

 しかしここで最も問題となるのは犬ではない。それは「ミュータント」である。彼らは人間の突然変異種で、並の人間を遥かに凌ぐ頭脳を持っていることが特徴だ。実のところミュータントは昔から存在していたが、集団の中で生きていくために社会の枠組みに知らず知らず収まって能力を劣化させてしまっており、認知されてこなかった。つまり「何千年かの間、人類を団結させていたものは、社会の圧力だった」*2という言葉が示すように彼らの能力は社会の圧力によって制限されていた。しかし、技術の発達で人々が互いに離れて暮らすようになり(=団結しなくても生きていけるようになり)、そのような圧力から逃れられるミュータントが出現しはじめ、人の目につくようになった。

 人間が宇宙に気軽に行けるようになったのも実はミュータントのおかげだったということが話の途中で明らかになるように、その頭脳は人間の技術を何段階も飛び越えて発展させる。それならばミュータントという存在には何の問題もないように思われる。しかし、集団の枠に囚われない彼らには欠けているものがある。それは人間が今まで集団生活を営むために培ってきたあらゆる倫理観である。彼らは、誰かのために行動することもないし、理想や理念といったものも持たない。常に他人を見下し、気まぐれである。協力し合うことはあっても、それは互いの利害が一致するから、あるいは単におもしろそうだからであり、そこに思いやりなどというものはない。「肉体の離散」が「精神の離散」に繋がるのだ。

 シマックはおそらく、人間の肉体的な離散傾向が続けば、人間から精神的な団結までもなくなるだろうという予測している。そこに残るのは完膚なきまでの個人主義であり、利害と刺激だけの世界である。人々が互いに手を取り合って文明を発展させていくような未来は、そこには存在しない。

 

 

 以上のように『都市』は、リモート技術をはじめとする科学技術の発達により、人間の精神にどのような変化が起こるのかを描き出している。もちろん約70年前の作品なのでツッコミどころは多くある。*3また、これは別記事で紹介しているが、本書はシマックの反人間主義が色濃く出た作品となっており、人間に対してかなり冷たい視線が注がれているというのも事実だ。さらには、本書で描かれるような世界の方が良いと思う人もいるだろう。しかし本書を読むことで、現在、まるで救世主かのように持て囃されるリモート技術、リモート生活に対して、その是非をもう一度問い直してみるのも良いのではないだろうか。

 

 

追伸

 ハヤカワ文庫の後書きにも書かれているように、『都市』には上で書いたようなこと以外にも実に多くの要素が含まれていて、様々な問題が提起されています。たとえば、ロボットと人間の関係や認識論的変容、異次元についてなどです。あと語り方がめちゃくちゃ上手い。どんどん引き込まれるし、終盤で伏線回収された時には膝を打った。なので是非実際に読んでいただきたい。のですが、現在絶版となっており、Amazonの中古価格もなかなか高めのものが多いです。しかし諦めずに図書館などで借りてみてください。あと早川書房は早くこれを復刊してください。

 

 

 

 

*1:クリフォード・D・シマック(1976)『都市』林克己他訳、早川書房、p.35

*2:同書p.133

*3:たとえば第2話で言えば、そんだけ技術が発達しているならリモート手術もできるでしょ、とか。

論文紹介|Feyel, Juliette(2016)≪Présent rétrospectif et détour post-humain chez Clifford Simak et Michel Houellebecq≫

※本記事はウエルベック素粒子』『ある島の可能性』についてのネタバレを含みます。

 

訳題
クリフォード・シマックミシェル・ウエルベックにおける回顧的現在とポストヒューマン的支流」

 

出典

Juliette Feyel, « Présent rétrospectif et détour post-humain chez Clifford Simak et Michel Houellebecq », ReS Futurae [En ligne], 7 | 2016, mis en ligne le 30 juin 2016.

journals.openedition.org

 

著者紹介

Juliette Feyel

博士(比較文学)。現在ケンブリッジ大学の Bye-fellow。主な研究テーマは、文学・映画・バンドデシネにおける肉体の主観性の近現代的表現。2013年にバタイユに関する単著を出版している。

Juliette Feyel | University of Cambridge - Academia.edu

 

要約
 シマック『都市』*1ウエルベック素粒子*2ある島の可能性*3は同じ手法を用いている。それは両者にとっての現在を、未来から、そして人間以後の存在の視点から描くものである。両者は共に同時代的な悪と絡めて現在を批判するためにこの手法を用いた。

 しかし相違点もある。シマックは、原爆投下と冷戦という核の恐怖を背景として人間の科学技術を批判し、あらゆる技術発明と科学を取り除くことで悪が消えた理想世界を思い描く。一方でウエルベックは、1968年に加速したモラルの低下を嘆き、不死になった快楽主義者の夢によって生まれたぞっとするような世界を思い描いている。すなわち未来において、シマックの作品では現在の悪が根絶され、ウエルベックの作品では現在の悪が保存かつ拡大されている。したがってウエルベック作品に、あり得る未来あるいは望ましい未来を見出す最近の解釈は誤っている。
 シマックはポスト人間主義者ではない。なぜなら、『都市』において人間以後の存在であるはずの「犬」は擬人化されてしまっているからだ。またエコロジストでもないし、普遍的な友愛の擁護者でもない。彼は反人間主義者であり、人間の根絶を望んでいるのである。一方、ウエルベックは『ある島の可能性』のなかで『都市』を暗示させつつ、登場人物(ダニエル25)にラディカルなエコロジー思想を反人間的であると批判させている。*4これは、ウエルベックがシマックに反人間的なニヒリズムを見出していたことの証左である。
 『ある島の可能性』のラストについては解釈者の人間主義に対する立ち位置によって解釈が割れている。それらは大まかに分けて、ウエルベックは①反人間主義者である②ポスト人間主義者である③いまだ人間主義を脱することができていない④文字通りの人間主義に希望を見出している、の4つである。しかし、クローンが人間の書いたもの*5を読むことでその生き方を変えようとする点で、このラストは人間主義の勝利であると考えられる。
 シマック『都市』は持続可能な社会のための政治的申し立てとして読まれるべきではない。なぜならその根底にあるのは人間に対する極度の嫌悪であるからだ。また、ウエルベックをポスト人間主義者だと考えるべきでもない。彼は根本的な精神変容がなければ、科学技術の発展はただ単に既存の悪を増大させるものだと考え、人間超越主義を批判しているように思える。さらに、ウエルベックの作品が否定している人間主義はあくまで個人主義的なものであり、ルネッサンス啓蒙主義の精神、すなわち物語の力はまだ信じられている。

 

 

感想

 『ある島の可能性』で人間主義が勝利しているというのは納得がいく。というのも個人的に、ウエルベックの小説を読んでいると、一見反人間的であるようだが実は人間に期待を寄せてもいるようにも見えると思っていたからだ。そのようにウエルベック作品を読めばこそ、最新作『セロトニン』のラストにおける人間への諦め、憤りが浮かび上がる。ウエルベックが読者に、そして人間に期待していたことは、『ある島の可能性』のダニエル25のように文章を読み、また自ら書くことによってその人の世界認識がひっくり返ることなのではないだろうか。

 たとえば、ウエルベックのエッセイ『ショーペンハウアーとともに』は、終盤までずっとショーペンハウアーの文章に賛同しているが、急に「ほんとうにそうだろうか」*6と疑問が呈され最終的に未完で終わる。大学時代に出会って以来影響を受け続けてきたショーペンハウアーを、それでもなおひたすら読み込むことにより、彼のなかに何らかの変容が生まれたのだ。ダニエル25は、ダニエル1の手記を読み続けるうちに、外部から推奨されている読み、かつての自分がしていたような読みができなくなった。*7ウエルベックも、ショーペンハウアーを読み続けるうちに、かつての自分が読んだようには読めなくなった。このように徹底的に読み、そして書くことにより精神的変容が生じること。それこそがウエルベックの賭け金なのではないだろうか。

 と、まあこんな話を思いついたのは最近佐々木中氏の『切りとれ、あの祈る手を』を読んでいるからなのですが。『ある島の可能性』はぜひ『切りとれ、あの祈る手を』とセットで読んでみてください。『ある島の可能性』が「文学」の話でもあるということが明らかになります。

 他に、要約外で興味深かった話は、『ある島の可能性』の未来では、自らをクローン化できたネオ・ヒューマンとできなかった(あるいはあえてしなかった)野人が存在しているが、これは我々の現在の格差が保存かつ拡大された結果であり、このような未来観はウェルズ『タイムマシン』と共通しているという指摘だ。

 もうひとつは、『ある島の可能性』の最後の2文(原文だと3文)についての解釈だ。「僕はここに在りながら、もはやここにはいない。それでも生は実在する」。*8ここでダニエル25は人間にとって無限の象徴だった海に身を浸すことにより、自分という境界=限界のない状態、いわば非人称的生を感じている。永遠の命(時間的無限)を手に入れると同時に個人という檻にさらに強く閉じ込められてしまったクローンが、ふたたび(空間的)無限を感じとる瞬間。Feyel はこれを非人称的生の実現の瞬間として肯定的に捉える。これはもう少しじっくりと考えたい意見。諸手を挙げては賛成できない。つまり、ダニエル25が非人称的生を確かに感じていたとしても、その事実をダニエル25が、そしてウエルベックが肯定的に捉えているのか否定的に捉えているのかはまだ判断できない。ウエルベックがそれに対してどのような考えを持っているのか、他の部分や他の作品を調べてみないと。

 

 

ある島の可能性 (河出文庫)

ある島の可能性 (河出文庫)

 

 

素粒子 (ちくま文庫)

素粒子 (ちくま文庫)

 

 

 

ショーペンハウアーとともに

ショーペンハウアーとともに

 

 

セロトニン

セロトニン

 

 

タイムマシン (角川文庫)

タイムマシン (角川文庫)

 

 

 

*1:科学技術の発展と認識論的転回によってほとんどの人間が地球上からいなくなる様と、科学技術によって人間の言語を操れるようになった犬族がその後の地球を統治していく様を描く。

*2:ミシェルとブリュノという異父兄弟の人生を通じて、現代の愛と自由にまつわる問題を描き出す。エピローグにおいて、この物語が実は未来のポストヒューマン的存在によって語られていたことが明らかになる。

*3:ダニエル1という我々の現在に生きた人間の手記を、ダニエル24・25という未来のクローンが読むという形式で物語が進む。

*4:狼や熊、昆虫、ダニについて言及されるが、これらはすべて『都市』の「イソップ」という章に登場する生物である。ゆえに、ウエルベックが『都市』を念頭においているのではないかと考えられる。

*5:未来では、人間の愚かさを乗り越えるために自らのオリジナルが書いた手記を読むことが推奨されている。しかし、それを読むことで逆に現在の生活に疑問を感じ、かつての人間のような暮らしを望むクローンが出現し出す。ダニエル25もそのひとりである。

*6:ミシェル・ウエルベック(2019)『ショーペンハウアーとともに』澤田直訳、国書刊行会、p.119

*7:そういえばウエルベックはエッセイのなかで、外部を自分から切り離すためのものとして読書を勧めていましたね。

*8:ミシェル・ウエルベック(2016)『ある島の可能性中村佳子訳、河出書房新社、p.526