菊地匠さんの個展「in Platea」の感想

先日、栃木県は足利市のGALLERY 碧で開かれた菊地匠さんの個展「in Platea」に行ったのでその感想をここに記す。ぼくは芸術の門外漢であるので以下に書かれるのは批評の類ではなくあくまでも感想であるということに留意されたい。

 

(下の文章を読むまえに、菊地匠さんのHP[https://www.kikuchitakumi.com/]で作品や展示風景を見ていただくと良いかと思います)

 

「Platea」はラテン語で「通り、街路」あるいは「中庭」を意味する語であるらしい。本個展は、この一見相反する意味を内包する語とマネの絵画とに共通する特性に対する気づきをもとに構築されている。菊地曰く、マネの絵画は既存のルールを打ち破った、つまり伝統的な絵画表現(対象や形式)の外に出たという点において「通り」性を持つ。さらには、抽象絵画に至る新たな表現形式を生み出した、つまり宗教や神話といった外部の秩序と手を切り芸術の内在秩序に従う新たな場を生み出したという点で「中庭」性を持つ。したがって、マネの絵画には「Platea」性がある。さらに菊地は、「Platea」という語が2世紀ごろには「中庭」という意味を失ったことにも着目する。「通り」と「中庭」、外と内とが重なる場としての「Platea」は遠い昔に失われてしまった。マネもまた現代の我々からすれば遠い存在である。この「隔たり」が「Platea」とマネを重ねる思考を生み出したと菊地は考える。加えて、「Platea」がかつて相反する意味に与えた同一性にベンヤミン的な「楽園」の同一性を見出す。そして失われた「楽園」もまた、現在から隔たったものである。こうして「Platea」という語には「通り」「中庭」「マネ」「楽園」といったイメージが重ねられる......

 

なぜ長々と個展そのものではなく、それを生み出すに至った思考について書いたのかというと、個展「in Platea」がその思考を表現するために精緻に構築されていると感じたからだ。

まず展示方法。展示会場はふたつの部屋からなり、入り口のあるひとつ目の部屋の一面はガラスとなっていて外から中があるいは中から外が見えるようになっている。一方、ふたつ目の部屋は外と隔てられており、壁は中庭から見た景色を描いた壁画で覆われている。つまり、ひとつ目の部屋が「Platea」の「通り」性を、ふたつ目の部屋が「中庭」性を表現しているのだという。この仕掛けを知ったときには体が震えた。知らないうちに「Platea」に足を踏み入れていただなんて。個展というものにはじめて行ったので他がどうなのかは知らないが、展示の仕方まで含めてひとつの芸術作品となっているという事態に感銘を受けた。

そして次に絵画作品。これに関しては本当に好き勝手書かせていただくが、前回の個展(「In Pause.」)に引き続き「隔たり」を思考したそれらの作品は鑑賞者に「宙づり」を促すものであるように思われる。対象物を写実的に描いたのではないそれらを見るとき、まず心に浮かぶのは何が描かれているのか分からないという不安である。人が描かれているように見える。泣いているように見える。いや笑っているようにも見える。いや待て、叫んでいるようにも見える。その絵はまるで鑑賞者がひとつの解釈に足をつけてしまうことを拒否しているかのようである。そのような宙づり状態のまま絵の前に立っていると徐々に、「そこに絵がある」という感覚が生まれてくる。そこで気がつく。もしかすると自分は今まで、絵を見ているはずが情報を読み取っていただけなのではないか、と。「宙づり」がひとつの存在を浮かび上がらせたのだ。絵を鑑賞するということが、ひとつの存在と対峙することであると気がつく。多様性、多重性は分かりにくさを生む。それは不安へとつながり、安易な陸地に足をつけてしまいそうになる。しかしその不安、宙づりにじっと耐えることではじめて、存在を存在として、つまり情報としてではなく存在として受け入れることができるのではないか。それは頭では分かっているつもりのことではあった。しかし今回ぼくはそれを体感した。

さらに、存在自体への讃歌であるような菊地の絵は「in Platea」という個展において、あるいは「Platea」という空間のなかでさらなる意味を持ったように感じる。エルンスト・ブロッホは『ユートピアの精神』を「わたしはある。わたしたちはある。/それで十分だ」と始める。わたしやわたしたちが何であるのかは問題ではなく、まずもって存在しているということ、それこそがユートピアを思考するための条件である、と。ゆえに、そこに描かれているものが何であるか決定することを「隔たり」によって鑑賞者にためらわせることによって存在自体を浮かび上がらせる菊地の絵はユートピアへとつながるものであるように思われる。ここにおいて、過去の「楽園」に対する「隔たり」の感覚は、未来の「ユートピア」に対する「隔たり」の感覚へと転換する。失われた「楽園」とまだ見ぬ「ユートピア」が「Platea」のもとで重なり合う。ならば「in Platea」の会場で、すなわち「Platea」で絵を見つめていたあのとき、もしかするとぼくはユートピアにいたのかもしれない。

 

 

追伸

菊地匠さんはとても良い文章を書く方なのでnoteの方[https://note.com/kikuchitakumi]もぜひ訪ねてみてください。

リモート時代のシマック『都市』|読んだこと考えたこと

 

 

 

 クリフォード・D・シマックの『都市』は1952年に連作短編集としてアメリカで出版された。約70年前の想像力によって生み出されたこの作品は、実のところまさに今読まれるべきものである。なぜか。それは、この作品がリモート技術の発達した世界とそれがもたらす弊害を予見しているからだ。

 

 

 詳しい話の前に、本書の全体の構成を共有したい。

 この連作短編集の体裁は次の通りだ。

 人間がもはや神話上の存在となった未来では、ある人間の発明により知性を発達させた犬族が人間に代わって地球を支配している。そのような世界で、ある研究者(研究犬?)が犬族の起源に関わる伝承と、それを巡る考察を一冊にまとめた。それが本書である。

 我々読者は、なぜ地球上から人間がいなくなったのか、なぜ犬が地球を支配しているのかなどと考えながら作品を読み進めていくこととなる。短編は時系列順に8つ並べられており、それぞれの話の前に犬による注釈「覚え書」が挿入されている。この記事では、その中でも特に第1話から第3話までを扱う。

 その第1話から第3話までかけて描かれるのは、技術の発展による「肉体の離散」「精神の密集」「精神の離散」である。

 

 

 第1話では「肉体の離散」が主に扱われ、その弊害としての「精神の離散」についても触れられる。

 舞台は1990年。世界では水耕栽培が普及し、農地の価格が大幅に下落した。その結果として多くの人々は、安い価格で広い土地を得られる(元)農村へこぞって移住した。その移住を支えたのは交通手段の変化である。原子力の平和利用により安価になったヘリコプターや飛行機をひとりひとりが所有するようになった。このようにして都市からは人がいなくなり、人々は地理的に離散した。

 このことには思わぬ利点があった。それは、都市というものがほぼ消滅したせいで、戦争がしにくくなったということだ。つまり、原子爆弾を投下しようにも、都市に人はおらず、工場はあちこちに散らばっているため、効果的な投下目標を定めることができないのだ。登場人物のひとり、ジョン・J・ウエブスターは次のように言う。

 大多数の諸君は、諸君の都市に人がいなくなったからこそ、今日なお生存していられるのです。

 さて、この都市の滅亡状態は今後もなおこのまま存続させたいものであります。滅亡はまことに幸いなことであり、人類の歴史上最もよろこばしい事件と申すべきであります。*1

ちなみに歴史というのは皮肉なもので、この第1話が雑誌に掲載されたのは1944年である。

 しかしもちろん欠点もある。家と家の間隔は止まることなく広がり、通りすがりの挨拶や井戸端会議なども消えてしまった。近所付き合いが減り、新自由主義的な個人主義が拡大する。そして最後に残るのは「孤独」である。

 

 

 第2話では、「肉体の離散」による「精神の密集」という弊害が描かれる。

 舞台は2117年。居住地の拡大傾向は続き、人間は火星にも進出する。火星には火星人が先住民として存在しており、彼らは哲学の面で人間より優れている。人間は科学技術を火星に輸出し、哲学を火星から輸入することで両者の間には平和な関係が築かれている。

 この時代にはVR技術が発達しており、あらゆる感覚をバーチャル空間で味わえる。つまり、実際に外に出歩かなくても、まるで本当にそうしているかのように旅行ができるし、人と会うこともできる。

 しかしそのようなリモート生活は思わぬ弊害を生む。「広場恐怖症」である。これはある種の強烈なホームシックであり、発症すると、人の密集する場所へは行けなくなり、住み慣れた家から離れることもままならなくなってしまう。なぜなら、自分の人生、あるいは自分の一族の人生のすべてがひとつの場所に密集することにより、精神が「家」に囚われてしまうからだ。このようにして、移動の不要化を伴う「肉体の離散」は「精神の密集」を引き起こす。たとえば、第2話の主人公であり、優秀な医者であるジェロームは、ある火星人を救うために火星に向かうことを要請されるが、「広場恐怖症」のため、なかなか出発の決意を固めることができない。土地が、家が、家財道具が、彼を引き止めるのである。彼が火星に行けたのかどうかは、ぜひ本書を読んで確かめていただきたい。

 

 

 第3話で描かれるのは、「肉体の離散」による「精神の離散」である。

 この話の時代には、第2話で出てきたジェロームの孫、ブルースの研究により一部の犬が人間の言葉を理解し話すことができるようになっている。

 しかしここで最も問題となるのは犬ではない。それは「ミュータント」である。彼らは人間の突然変異種で、並の人間を遥かに凌ぐ頭脳を持っていることが特徴だ。実のところミュータントは昔から存在していたが、集団の中で生きていくために社会の枠組みに知らず知らず収まって能力を劣化させてしまっており、認知されてこなかった。つまり「何千年かの間、人類を団結させていたものは、社会の圧力だった」*2という言葉が示すように彼らの能力は社会の圧力によって制限されていた。しかし、技術の発達で人々が互いに離れて暮らすようになり(=団結しなくても生きていけるようになり)、そのような圧力から逃れられるミュータントが出現しはじめ、人の目につくようになった。

 人間が宇宙に気軽に行けるようになったのも実はミュータントのおかげだったということが話の途中で明らかになるように、その頭脳は人間の技術を何段階も飛び越えて発展させる。それならばミュータントという存在には何の問題もないように思われる。しかし、集団の枠に囚われない彼らには欠けているものがある。それは人間が今まで集団生活を営むために培ってきたあらゆる倫理観である。彼らは、誰かのために行動することもないし、理想や理念といったものも持たない。常に他人を見下し、気まぐれである。協力し合うことはあっても、それは互いの利害が一致するから、あるいは単におもしろそうだからであり、そこに思いやりなどというものはない。「肉体の離散」が「精神の離散」に繋がるのだ。

 シマックはおそらく、人間の肉体的な離散傾向が続けば、人間から精神的な団結までもなくなるだろうという予測している。そこに残るのは完膚なきまでの個人主義であり、利害と刺激だけの世界である。人々が互いに手を取り合って文明を発展させていくような未来は、そこには存在しない。

 

 

 以上のように『都市』は、リモート技術をはじめとする科学技術の発達により、人間の精神にどのような変化が起こるのかを描き出している。もちろん約70年前の作品なのでツッコミどころは多くある。*3また、これは別記事で紹介しているが、本書はシマックの反人間主義が色濃く出た作品となっており、人間に対してかなり冷たい視線が注がれているというのも事実だ。さらには、本書で描かれるような世界の方が良いと思う人もいるだろう。しかし本書を読むことで、現在、まるで救世主かのように持て囃されるリモート技術、リモート生活に対して、その是非をもう一度問い直してみるのも良いのではないだろうか。

 

 

追伸

 ハヤカワ文庫の後書きにも書かれているように、『都市』には上で書いたようなこと以外にも実に多くの要素が含まれていて、様々な問題が提起されています。たとえば、ロボットと人間の関係や認識論的変容、異次元についてなどです。あと語り方がめちゃくちゃ上手い。どんどん引き込まれるし、終盤で伏線回収された時には膝を打った。なので是非実際に読んでいただきたい。のですが、現在絶版となっており、Amazonの中古価格もなかなか高めのものが多いです。しかし諦めずに図書館などで借りてみてください。あと早川書房は早くこれを復刊してください。

 

 

 

 

*1:クリフォード・D・シマック(1976)『都市』林克己他訳、早川書房、p.35

*2:同書p.133

*3:たとえば第2話で言えば、そんだけ技術が発達しているならリモート手術もできるでしょ、とか。

論文紹介|Feyel, Juliette(2016)≪Présent rétrospectif et détour post-humain chez Clifford Simak et Michel Houellebecq≫

※本記事はウエルベック素粒子』『ある島の可能性』についてのネタバレを含みます。

 

訳題
クリフォード・シマックミシェル・ウエルベックにおける回顧的現在とポストヒューマン的支流」

 

出典

Juliette Feyel, « Présent rétrospectif et détour post-humain chez Clifford Simak et Michel Houellebecq », ReS Futurae [En ligne], 7 | 2016, mis en ligne le 30 juin 2016.

journals.openedition.org

 

著者紹介

Juliette Feyel

博士(比較文学)。現在ケンブリッジ大学の Bye-fellow。主な研究テーマは、文学・映画・バンドデシネにおける肉体の主観性の近現代的表現。2013年にバタイユに関する単著を出版している。

Juliette Feyel | University of Cambridge - Academia.edu

 

要約
 シマック『都市』*1ウエルベック素粒子*2ある島の可能性*3は同じ手法を用いている。それは両者にとっての現在を、未来から、そして人間以後の存在の視点から描くものである。両者は共に同時代的な悪と絡めて現在を批判するためにこの手法を用いた。

 しかし相違点もある。シマックは、原爆投下と冷戦という核の恐怖を背景として人間の科学技術を批判し、あらゆる技術発明と科学を取り除くことで悪が消えた理想世界を思い描く。一方でウエルベックは、1968年に加速したモラルの低下を嘆き、不死になった快楽主義者の夢によって生まれたぞっとするような世界を思い描いている。すなわち未来において、シマックの作品では現在の悪が根絶され、ウエルベックの作品では現在の悪が保存かつ拡大されている。したがってウエルベック作品に、あり得る未来あるいは望ましい未来を見出す最近の解釈は誤っている。
 シマックはポスト人間主義者ではない。なぜなら、『都市』において人間以後の存在であるはずの「犬」は擬人化されてしまっているからだ。またエコロジストでもないし、普遍的な友愛の擁護者でもない。彼は反人間主義者であり、人間の根絶を望んでいるのである。一方、ウエルベックは『ある島の可能性』のなかで『都市』を暗示させつつ、登場人物(ダニエル25)にラディカルなエコロジー思想を反人間的であると批判させている。*4これは、ウエルベックがシマックに反人間的なニヒリズムを見出していたことの証左である。
 『ある島の可能性』のラストについては解釈者の人間主義に対する立ち位置によって解釈が割れている。それらは大まかに分けて、ウエルベックは①反人間主義者である②ポスト人間主義者である③いまだ人間主義を脱することができていない④文字通りの人間主義に希望を見出している、の4つである。しかし、クローンが人間の書いたもの*5を読むことでその生き方を変えようとする点で、このラストは人間主義の勝利であると考えられる。
 シマック『都市』は持続可能な社会のための政治的申し立てとして読まれるべきではない。なぜならその根底にあるのは人間に対する極度の嫌悪であるからだ。また、ウエルベックをポスト人間主義者だと考えるべきでもない。彼は根本的な精神変容がなければ、科学技術の発展はただ単に既存の悪を増大させるものだと考え、人間超越主義を批判しているように思える。さらに、ウエルベックの作品が否定している人間主義はあくまで個人主義的なものであり、ルネッサンス啓蒙主義の精神、すなわち物語の力はまだ信じられている。

 

 

感想

 『ある島の可能性』で人間主義が勝利しているというのは納得がいく。というのも個人的に、ウエルベックの小説を読んでいると、一見反人間的であるようだが実は人間に期待を寄せてもいるようにも見えると思っていたからだ。そのようにウエルベック作品を読めばこそ、最新作『セロトニン』のラストにおける人間への諦め、憤りが浮かび上がる。ウエルベックが読者に、そして人間に期待していたことは、『ある島の可能性』のダニエル25のように文章を読み、また自ら書くことによってその人の世界認識がひっくり返ることなのではないだろうか。

 たとえば、ウエルベックのエッセイ『ショーペンハウアーとともに』は、終盤までずっとショーペンハウアーの文章に賛同しているが、急に「ほんとうにそうだろうか」*6と疑問が呈され最終的に未完で終わる。大学時代に出会って以来影響を受け続けてきたショーペンハウアーを、それでもなおひたすら読み込むことにより、彼のなかに何らかの変容が生まれたのだ。ダニエル25は、ダニエル1の手記を読み続けるうちに、外部から推奨されている読み、かつての自分がしていたような読みができなくなった。*7ウエルベックも、ショーペンハウアーを読み続けるうちに、かつての自分が読んだようには読めなくなった。このように徹底的に読み、そして書くことにより精神的変容が生じること。それこそがウエルベックの賭け金なのではないだろうか。

 と、まあこんな話を思いついたのは最近佐々木中氏の『切りとれ、あの祈る手を』を読んでいるからなのですが。『ある島の可能性』はぜひ『切りとれ、あの祈る手を』とセットで読んでみてください。『ある島の可能性』が「文学」の話でもあるということが明らかになります。

 他に、要約外で興味深かった話は、『ある島の可能性』の未来では、自らをクローン化できたネオ・ヒューマンとできなかった(あるいはあえてしなかった)野人が存在しているが、これは我々の現在の格差が保存かつ拡大された結果であり、このような未来観はウェルズ『タイムマシン』と共通しているという指摘だ。

 もうひとつは、『ある島の可能性』の最後の2文(原文だと3文)についての解釈だ。「僕はここに在りながら、もはやここにはいない。それでも生は実在する」。*8ここでダニエル25は人間にとって無限の象徴だった海に身を浸すことにより、自分という境界=限界のない状態、いわば非人称的生を感じている。永遠の命(時間的無限)を手に入れると同時に個人という檻にさらに強く閉じ込められてしまったクローンが、ふたたび(空間的)無限を感じとる瞬間。Feyel はこれを非人称的生の実現の瞬間として肯定的に捉える。これはもう少しじっくりと考えたい意見。諸手を挙げては賛成できない。つまり、ダニエル25が非人称的生を確かに感じていたとしても、その事実をダニエル25が、そしてウエルベックが肯定的に捉えているのか否定的に捉えているのかはまだ判断できない。ウエルベックがそれに対してどのような考えを持っているのか、他の部分や他の作品を調べてみないと。

 

 

ある島の可能性 (河出文庫)

ある島の可能性 (河出文庫)

 

 

素粒子 (ちくま文庫)

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ショーペンハウアーとともに

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セロトニン

セロトニン

 

 

タイムマシン (角川文庫)

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*1:科学技術の発展と認識論的転回によってほとんどの人間が地球上からいなくなる様と、科学技術によって人間の言語を操れるようになった犬族がその後の地球を統治していく様を描く。

*2:ミシェルとブリュノという異父兄弟の人生を通じて、現代の愛と自由にまつわる問題を描き出す。エピローグにおいて、この物語が実は未来のポストヒューマン的存在によって語られていたことが明らかになる。

*3:ダニエル1という我々の現在に生きた人間の手記を、ダニエル24・25という未来のクローンが読むという形式で物語が進む。

*4:狼や熊、昆虫、ダニについて言及されるが、これらはすべて『都市』の「イソップ」という章に登場する生物である。ゆえに、ウエルベックが『都市』を念頭においているのではないかと考えられる。

*5:未来では、人間の愚かさを乗り越えるために自らのオリジナルが書いた手記を読むことが推奨されている。しかし、それを読むことで逆に現在の生活に疑問を感じ、かつての人間のような暮らしを望むクローンが出現し出す。ダニエル25もそのひとりである。

*6:ミシェル・ウエルベック(2019)『ショーペンハウアーとともに』澤田直訳、国書刊行会、p.119

*7:そういえばウエルベックはエッセイのなかで、外部を自分から切り離すためのものとして読書を勧めていましたね。

*8:ミシェル・ウエルベック(2016)『ある島の可能性中村佳子訳、河出書房新社、p.526

ミシェル・ウエルベック "Donald Trump Is a Good President" 内容紹介

ミシェル・ウエルベックは、その政治思想を位置付けるのが難しい作家であると言えます(とりあえず自由主義が嫌いだというのは明らかでしょうが)。そんな彼が2018年にアメリカの Harper's Magazine*1 に寄せた "Donald Trump Is a Good President" という文章の改訂版記事がオンライン上で読めることを発見したので、その内容を紹介しつつコメントを付けていこうと思います。

 

 

 

内容紹介 

 

記事は次のように始まります。

 

率直に言って、わたしはアメリカ人が大好きである。[中略]あれほどまでにひどい道化が国のトップであるということに対して多くのアメリカ人が抱いている羞恥の念に、わたしは共感する。

 

いきなり記事の題と反するような発言が出てきました。これはどういうことでしょう。

 

しかしながら、あなたがたに次のことをお願いしなければならない。[中略]少しの間、物事をアメリカ人以外の視点から考えてみてほしい。[中略]これは「残りの世界の視点で」という意味だ。

 

「残りの世界の視点」とはどのようなものなのでしょうか。そのような疑問を残したまま話が少しずれて、フランスの話になります。これまでトランプの当選について聞かれても「知ったことか I don't give a shit」と答えてきたとウエルベックは言います。曰く、フランスはアメリカの州ではないからです。つまり、所詮は他国の話だということですね。

 

フランスは多かれ少なかれ独立国家である。EUが解体すれば(これは早ければ早い方が良い)、フランスは再び完全な独立を得るだろう。

 

ここから、ウエルベックEUに反対であるということが分かります。また各国家は互いに無関係に独立している方が良いという考えも持っていそうです。ちなみに「多かれ少なかれ more or less」という部分に、フランスは完全な独立国家だと無邪気に思っているフランス国民への嘲りみたいなものを感じるのはぼくだけでしょうか......?

 

アメリカはもはや世界の中心ではない。[中略]

今やいくつかある主要国のうちのひとつである。

これはアメリカ人にとって必ずしも悪い知らせではない。

残りの世界にとっては非常に良い知らせである。

 

アメリカが「世界の中心」でなくなったことが、「アメリカ人にとって必ずしも悪い」ことではないというのは面白いですね。

 

とはいえ、アメリカは依然として世界最大の軍事力を持っており、「不幸にも」国外への軍事介入は続いているとウエルベックは指摘します。「わたしは歴史家ではないが」と断ったうえで、アメリカが最後に戦争に「勝った」のはかなり昔の話であり、少なくともここ50年間の外国への軍事介入は「不名誉の連続であり結果的に失敗」であるとまで言います。そして、その最後の勝利というのは「第二次世界大戦」であると。

 

次に、もしアメリカが第二次世界大戦に参戦していなければ、アジアの運命は大きく変わっていただろうと述べます。一方ヨーロッパに関しては、ヒトラーは相変わらず敗戦し、共産主義が今よりも勢力を伸ばしていただろうとしています。それはウエルベックにとって「不快なシナリオ」です。しかし彼の考えでは、ソ連も結局は現実と同じように崩壊するようです。

 

アメリカが参戦しなかったとしても、第二次世界大戦の]40年後に、ソ連はまったく同じように崩壊していたことだろう。それは単に、ソ連が役に立たないインチキなイデオロギーに基づいているからだ。

 

ソ連の脅威はヨーロッパにとって恐るべきようなものではない。なぜならそれはそのうち自壊するからだ、ということですね。ではウエルベックの考えでは、ヨーロッパの長い歴史において常に脅威となってきたものとは何でしょうか。そう、イスラム教です。そして、イスラム教との戦いは今日、ヨーロッパにとって重要な位置に戻りつつあるようです。

 

ウエルベックイスラム教を常に馬鹿にしてきたことは有名です。それは作品中だけの話ではなく、現実世界においても彼はイスラム教を侮辱する発言をしており、2001年にはフランスのイスラム教系団体から訴えられています(翌年に無罪判決が出ました)。ですので、この先にイスラム教に対して攻撃的な文章が続くのかと思ったのですが、実際には違いました。

 

続く文章でウエルベックは、イラク戦争を「反道徳的かつ愚かな戦争」であると述べます。彼はイラク戦争に批判的なんですね。ここで、フランスに対する皮肉混じりのコメントが入ります。

 

イラク戦争への参戦を断った]フランスは正しかった。このことを指摘するときに感じる喜びは、フランスがド・ゴール政権以降めったに正しいことをしてこなかっただけに、なおさら大きいものである。

 

そして、オバマがシリアへの攻撃に参加しなかったことを褒め称えます。あれ、ウエルベックってこんなに人道的でしたっけ。彼は続けて次のように述べます。

 

トランプはオバマによって始められた撤退政策を継続し、拡大している。これは残りの世界にとって非常に良い知らせである。

アメリカ人は我々に干渉しない。

アメリカ人は我々に存在することを許している。

 

ここで考えておくべきなのは「我々」とは誰なのかでしょう。おそらくそれは「残りの世界」=「地球上のアメリカ以外の部分」のことです。

 

そうするとトランプは、撤退政策を継続かつ拡大しているために「残りの世界」にとって「良い大統領」なのでしょうか。それはトランプの悪行を凌駕するほど良いことなのでしょうか。悪行、それはたとえば「デモクラシー」の軽視や「報道の自由」への圧力などです。

 

ウエルベックは、アメリカ人がもはや世界中に「デモクラシー」を広めようとしていないと指摘したうえで、「デモクラシーとは何であろうか」と問いかけます。そもそも彼にとって、部分的にではあれ実際に「デモクラシー」を享受しているのは世界でスイスだけです。また彼は、スイスの中立主義を「賞賛に値する」と形容します。

 

さらにウエルベックは、アメリカ人にはもはや「報道の自由」のために死ぬ覚悟がないとしたあとに、こちらもまた「報道の自由とは何であろうか」と問いかけます。そして自分は12歳のときからずっと、許容される意見の範囲が縮小していくのを見ていたと言います。これは、政治権力による「報道の自由」への圧力だけではなく、ポリティカル・コレクトネスに基づいた表現規制を踏まえての発言であると思われます。このふたつはウエルベックにとっては同じことであるようです。

 

以上より、トランプが軽視したり圧力をかけたりしているものはトランプ以前からそもそも存在していない、あるいは縮小傾向にあるとウエルベックが考えていることが分かります。

 

次に、脱線のように思えるドローンの話が挟まりますが、ウエルベックらしい皮肉の効いたものですので訳してみます。

 

アメリカ人はますますドローンに頼っている。もし彼らがこの兵器の使い方を知っていれば、それは[軍事作戦における]民間人犠牲者の数を減らせるだろうに(しかし実際のところ前々から、やや誇張して言えば航空術が創始されて以来、アメリカ人は適切な爆撃を実行することができていない)。

 

これまで話からすれば、軍事の面におけるトランプの姿勢がウエルベックにとっては歓迎すべきものであるということになります。「しかし」と彼は言います。

 

しかし、アメリカの新しい政策においてもっとも注目すべきであるのは、疑いようもなく、貿易におけるアメリカの位置であり、そこにおいてトランプはまるで新鮮な空気をもたらす健康的な呼吸のようである。

 

自らの意にそわない貿易に関する条約や合意を破棄している点においてトランプは正しいとウエルベックは言います。

 

指導者たちはクーリング・オフを利用して悪い契約を破棄する術を知るべきである。

 

自由市場を望む自由主義者たち(彼らは共産主義者と同じほど狂信的である)とは違い、トランプ大統領は世界的な自由市場を人類の進歩の本質や結末だとは考えていない。

 

ただし、反自由市場の態度はトランプの信念に基づくものではなく、もし自由市場がアメリカの利害と一致するならばトランプは自由市場を好意的に受け入れるだろうとウエルベックは述べます。

 

加えてウエルベックは、トランプがアメリカ労働者階級の保護を掲げて当選したという事実を強調します。また、フランスでも長年そのような態度を取る存在が待ち望まれていると言います。

 

続いて、EUの話に移ります。曰く、トランプはEUが嫌いであり、それは「我々」、つまりEU加入国の国民がそれほど多くのものを共有していない、特に「価値観」を共有していないとトランプが考えているからです。そしてトランプは「EU」とではなくそれぞれの国と直接交渉しており、それはウエルベックにとって望ましいことなのです。

 

さらにウエルベックは、ヨーロッパは何も共有していないと言い、最終的に「ヨーロッパは存在しない」と言い切ります。

 

端的に言って、ヨーロッパとはただただ愚かな観念であり、徐々に悪夢へと変わりつつある。我々はそのうちその夢から目覚めるだろう。

 

トランプと同様に自分も「ブレグジット」を歓迎したとウエルベックは言います。ただしイギリスに先を越されてしまったのは悔しい、と彼は付け加えますが。

 

次に、ロシアについての話に移ります。トランプがそうであるように自分もプーチンを評価するとウエルベックは述べます。ウエルベックの場合、その理由は現在のロシアで正教会が持続していることにあります。ウエルベックの見立てによると、ヨーロッパのキリスト教にとって、1054年正教会ローマ・カトリック教会の分裂が「終わりの始まり」であり、両者の再統一こそがキリスト教存続のために重要なのです。というのもキリスト教は「聖書の宗教 religion of the Book」であるだけでなく「受肉の宗教 religion of the Incarnation」であるとウエルベックは考えているからです。

 

ウエルベックは『素粒子』内で主人公のひとりであるミシェル・ジェルジンスキに「宗教なしでいったいどうして社会が存続できるのだろう?」「西欧社会は何らかの宗教なしで、いったいいつまで存続できるのか?」と述べさせています*2。また、『素粒子』の原著が出版される2年前に行われたインタビューにおいて、自分自身は反宗教の立場であるとしながらも、文明というものは宗教がなければ存続できないとの考えを述べています*3

 

これらの点を踏まえると、西欧社会を存続させるためには宗教が必要であり、その宗教、つまりカトリックが存続するためには正教会との再統一、あるいは両者の歩み寄りが必要であり、そのような正教会を保持しているロシアの大統領であるプーチンを蔑ろにしていない点で、トランプのことを評価できるということでしょう。

 

そして今度は話が北朝鮮に移り、「北朝鮮の狂人」を手懐けているとしてトランプを褒めます。

 

どうやらウエルベックは、トランプのEUやロシア、北朝鮮に対する態度を高く評価しているようです。そして次のように述べます。

 

トランプ大統領は最近「わたしが何者か知っているか? ナショナリストだ!」と言明したようだ。わたしもまさにそうである。ナショナリスト同士では会話することができる。しかしインターナショナリストたちとの会話は、奇妙なことにあまり上手くいかない。

 

それから、フランスはNATOを去るべきだとウエルベックは言います。しかしそれはNATOが自壊するまで起こらないことであろうとも。その点、(2018年当時)NATO脱退を示唆しているトランプは賞賛に値するというわけです。

 

以上で述べてきたことを理由に、「トランプ大統領は今までわたしが見てきたなかでもっとも良い大統領のひとりであるように思える」とウエルベックは結論付けます。ただし、「個人のレベルにおいては、もちろん彼はたいそう胸糞の悪いやつだ」とも言います。たとえば、「障害者を笑いものにするのは下品である」と。ですので、もし同じ政策を掲げるのであればトランプよりも真正なキリスト教保守派が大統領になるべきだったと述べます。あくまで、トランプを支持できるのはその政策がウエルベックの考えと合致するものだからということですね。冒頭の発言の謎がここで解けました。

 

そしてここからは、もしトランプ政権が続いた場合、ウエルベックが上で褒めたような政策が続いた場合、世界が、あるいはアメリカがどうなるのかという話になります。

 

[トランプが大統領を続ければ]あなた方は今よりほんの少しだけではあるが競争好きでなくなるだろう。そして、あなた方の素晴らしい国の境界線内で生きる喜び、正直と美徳を実践する喜びを再発見するだろう(相変わらず不倫はあると思うが。でも完璧な人などいないのだから、そのことについては安心してほしい。[中略]わたしは吐き気のするような「浮気なフランス男」を演じたいわけではない。ただ、最小限の偽善は維持するようにと懇願しているだけだ。偽善というものがなければ人間社会においていかなる生活も不可能であるのだから)。

 

ここで注目すべきなのは、「競争」という言葉でしょう。ウエルベックが資本主義的な「競争」を嫌っていることはこれまでの彼の小説やエッセイ(特に "Approches du désarroi" )を読めば明らかです。トランプの外交政策は国家と国家の「競争」を弱める効果があり、その結果として人と人の「競争」も弱まるとウエルベックは考えているようです。ではなぜそのような結果が生まれるのでしょうか。

 

ウエルベックの見立てでは、国家間の貿易量は徐々に、しかもそう遠くないうちに減少に転じます。彼にとってそれは、「望ましい目標」であります。また、国家間の貿易量が減少することはすなわち、航行する貿易船の数の減少、乗組員の数の減少をもたらすと彼は考えます。その結果、船や人のそれぞれを攻撃から守ることが今よりも容易になり、海上保安のための軍事力が縮小に向かうと彼は考えます。

 

あなた方の救済者気取りの軍国主義は完全に消滅するだろう。そうすれば、世界はただただほっと一息つくだろう。

 

最後に中国とインドの話になります。ウエルベックの予想では、中国もインドも最終的にはその「傲慢な野望」を縮小させます。両者はともに、決して「世界的な帝国主義的勢力」ではないと彼は言います。それは両者の軍事的な狙いがアメリカとは違って世界に向いていないからです。

 

しかし中国とインドの経済的な狙いは世界に向いているとウエルベックは指摘します。ここにおいて、制裁を課すことでされるがままになっていないトランプは「非常に正しい」とします。今は互いに張り合っているが、最終的には中国とインドの問題行動は収まり、経済成長率は減少していくだろうとウエルベックは予想します。この予想の根拠としては、記事に明記されてはいませんがおそらく、上で述べられたような国家間の貿易量の減少が起きることで、世界貿易によって経済成長を果たしている2国の成長が止まるということが考えられているのでしょう。

 

そして、今ここで予想したようなことは「すべて、ひとりの人間の一生のうちに起こるだろう」とウエルベックは述べ、最後にこう言います。

 

アメリカ国民のみなさま、あなた方はこの考えになれなければならない。結局のところ、ドナルド・トランプはあなた方にとって、避けては通れない厳しい試練でありつづけるかもしれないということに。そしてあなた方は永遠に旅行者として歓迎されるだろう。

 

原文では "maybe Donald Trump will have been a necessary ordeal for you" となっていますが、ここで未来完了形が用いられているのはそこに、ウエルベックが予想したような望ましい未来が実現するまでトランプがそのような試練でありつづける、というような意味が含まれているからでしょう。

 

最後の段落で、ウエルベックの姿勢が一気に明確になるように思われます。つまり、トランプの行う外向きの政策は「残りの世界」に住む「我々」にとっては歓迎すべきものであり、内向きの政策によって「あなた方」アメリカ人が苦しんでいることには同情するが、せいぜいがんばって耐えてくれ、というような姿勢です。結局のところ、ウエルベックは "I don't give a shit" の姿勢を貫いているように思われます。

 

また、最後の文はふたつの読み方ができると思います。ひとつは「(侵略者としてではなく)旅行者として」というものです。競争相手ではなく、友好的な旅行者として。これは国家的な侵略と同時にアメリカ系企業の世界侵略を忌避しての発言であるでしょう。

 

もうひとつとしては、「旅行者として(なら)歓迎される」が移住してこないでくれ、という風に読み取ることができるかと思います。つまり、「我々」にとって利益のある政策を行うけれども人として難のあるトランプなんてやつを選挙で選んでしまったアメリカ国民には、自国に住んでほしくないという思いがここに現れているように感じます。また、そのように考えると文章中で使われる「あなた方 you」というのは、ただ単に「アメリカ人」を指しているというよりは、「トランプ政権を誕生させてしまったアメリカ国民たち」を指しているのではないかと考えられます。

 

 

まとめ

 

端的にまとめると、トランプという人物はクソであるが、トランプという大統領とその政策、とりわけ軍事的撤退や反自由市場的姿勢はアメリカ国外に利益をもたらすのでトランプは "a good president" である、ということでしょう。

 

この記事から考えるに、ウエルベックにとって理想の世界とは、国家と国家がほぼ完全に独立し、互いに無干渉であるような世界であるようです。また、国家と国家の競争が、人と人との競争に繋がっているとも考えているようです。ただし彼は『ある島の可能性』において、人間が互いに物質的に孤立して生きる世界を否定的に描いており、あくまで独立無干渉が推奨されるのは国家レベルに限った話であると考えられます。

 

加えて、記事中で「我々」の範囲が変わっていることにも注目すると、ウエルベックの視線が結局ヨーロッパにしか向いていないのではという疑念が浮かびます。というのも、最初は「残りの世界」つまりアメリカ以外の国や地域すべてを指すと思われていた「我々」が、EUにまつわる話において、実はヨーロッパに限定されていることが明らかになるからです。まるでウエルベックにとって「世界」とはアメリカとヨーロッパからしかできていないかのような印象を受けます。

 

最後に注意事項ですが、ウエルベックは以前「わたしがどういう人間であるのか知っているうえで、あるテーマについてわたしに意見を求めることは、馬鹿げたことだ。なぜならわたしはとても頻繁に意見を変えるからだ」*4と述べています。それゆえ、この記事で述べているような考えを昔から持っていた、あるいは今も持っていると単純に考えることは避けるべきでしょう。また、ウエルベックは自分の考えを直接述べないことが特徴であると指摘している研究*5もあり、彼の発言をそっくりそのまま彼の意見であると受け止めてしまうことは危険であるでしょう。

*1:下記ふたつのサイトによれば、自由主義系の雑誌であるようです。

https://libguides.lorainccc.edu/c.php?g=29395&p=183699

https://www.google.co.jp/amp/s/mediabiasfactcheck.com/harpers/%3famp

*2:ミシェル・ウエルベック素粒子野崎歓訳、ちくま文庫、2006、221頁

*3:https://www.humanite.fr/node/134864

*4:https://www.lemonde.fr/societe/article/2010/09/09/au-proces-de-michel-houellebecq-pour-injure-a-l-islam-les-ecrivains-defendent-le-droit-a-l-humour_1409172_3224.html

*5:Hillen, Sabine (2007) Écarts de la modernité : le roman français de Sartre à Houellebecq, Lettres modernes Minard. p.131. ちなみにウエルベック自身は "Approches du désarroi" 内で「自分の考えを直接述べないのよくないよね」というようなことを書いていて、Hillen はその矛盾も指摘しています。

禁煙日記 最終日

 

喫煙を再開した。トルコで。

 

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ヨーロッパ諸国と同じく、個性を奪われた姿で煙草たちは売られていた。


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Tekel 2000 Maviとかいう、日本では聞いたことのない煙草を現地で買って吸ってみる。パーラメントのフィルターのようないわゆる「リセスド・フィルター」の形式が取られていた。味は粗挽きしたキャメル、みたいな。かなり重めの煙草で、久しぶりだったこともあり、ガツンと来た。煙を吸う勢いやペースを調節することで、心地よい酸欠状態を発生させる。それが喫煙の醍醐味のひとつだと思っている。

イスタンブールではみんな路上喫煙をしていた。歩き煙草も普通にしているし、道に等間隔に灰皿がある。みんな道にポイ捨てしていたけどね。ヨーロッパ諸国と同じように、室内は全面禁煙だが屋外はほとんど規制なしといった様子。

 

夜は水タバコ。半屋外の店。かなり繁盛していた。

 

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日本とは違って、注文して5分ほどでもう吸えた。常に炭を焼き続けているからだろう。また値段に関しても、日本だと、ソフトドリンク飲み放題付きで、1台1500円ぐらいだが、イスタンブールでは、甘くて美味いアップルティーを3杯ぐらい飲んで700円ほどだった。3杯ぐらいというのは、会計が自己申告制で、そのことを知らずにガバガバと飲んでいたので結局何杯飲んだのかが不明だからだ。

 

Muratti Rossoという煙草も買って吸ってみる。基本はラキストのような味だが、後味にいわゆる煙草葉の甘味のようなものを感じられて旨い。トルコの煙草は色の名前が付いていて、それで種類展開してるっぽい。Murattiも他にはBlueがあった。

 

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カッパドキア洞窟ホテルにて。

 

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パッケージはもっとエグい写真のものもあったが、今のところそこまで酷くない写真のものを買っている。空港では、詰め替え用の紙ケース(あるいは、ボックスに被せるケース)が売られていて、なるほど喫煙者の知恵を感じた。そういえば、トルコで売られている煙草はすべてボックスタイプな気がする。

 

カッパドキアのハイテンションアメリカ人に「日本の煙草ある?」と聞かれて「ない」と答えたら残念そうにしていたので、海外旅行の際は、日本の煙草を持っていくと現地の喫煙者と仲良くなれるかもしれない。煙草はコミュニケーションの手段でもあるのだから。

 

ということで、禁煙日記は今回で終わり。煙草はやっぱり旨い。

禁煙日記 18日目(2回目)

 

恋人は眠りながら会話ができる。恋人と一緒に眠ると、かならずぼくの目が先に覚める。すると恋人は目を開けないままぼくが起きたことに気がつくようで、その日に見た夢の話をしはじめる。たとえば、トロンボーンと大根が同時に空から降ってくる夢。トロンボーンを受け止めたら、大根が地面で砕け散ってしまったことを泣きながら話してくれた。実際は、もっと支離滅裂な会話からはじまる。

トロンボーン選んじゃった......」

「他には何があったの?」

「大根」

そして、質問を繰り返すことで徐々にそれらが空から降ってきたことなどが分かるのだ。

 

ある日の朝、恋人は眠りながら泣いていた。夢のなかでぼくが先に死んでしまったので寂しく、悲しくなったらしい。あまりにも悲しげに泣くのでぼくは

「大丈夫。Kさんより先には絶対死なないよ」

と言った。

すると恋人が、ほんとに? ほんとに? と尋ねてくるので、何の保証もないしその気もないけれども、とりあえず今の悲しみを和らげたい一心で、ほんとだよ、ほんとだよ、と繰り返した。恋人は徐々に泣き止んで笑顔になった。

「わたし、死んだらいちばん偉くない天使になるの。使いっ走りの天使」

「使いっ走りの天使?」

「死んだ人を真っ先に迎えにいく天使なの! 死んじゃったら西村くんと会えなくなっちゃうの、寂しいの。だから使いっ走りの天使になるの! そしたら、死んだ西村くんと天国でいちばん早く、誰よりも先に会えるでしょ! 西村くんが死んだらすぐに迎えに行くからね」

 


ぼくが恋人より先に死のうが後に死のうが、どちらにせよ寂しくなっていることにツッコミを入れるのは野暮だろう。ぼくは恋人を寂しくさせたくないが、どちらにしても寂しくさせてしまうようだ。それなら天使になった恋人に迎えに来てもらう方がいい。だから少なくとも恋人よりは長く生きたい。そのために禁煙を続けるというのも悪くはないなと思いはじめている。

禁煙日記 15日目〜17日目(2回目)

 

ぼくはたしかに喫煙者ではあるが、煙草に健康的な要素があるとはまったく思っておらず、全面的に身体に悪いと分かったうえで吸っていた。

 

ところが、以前煙草屋で『ケムリエ』という煙草に関する無料の情報誌をもらって読んでみると、そのなかで医者が「喫煙すると認知症になりにくい」と言っていた。認知症にだけはなりたくないと常日頃から思っていたぼくには朗報である。

 

ちょっと待った。「百害あって一利なし」と言われる煙草にそのような効果が本当にあるのだろうか。疑問に思って調べてみると答えは意外かつ呆気ないものであった。

その答えとは、「煙草を吸うと認知症を発症する前に死ぬので、結果として喫煙者に認知症発症者が少なくなる」というものであった。なるほど、言われてみればもっともなことだ。しかし、認知症をはじめ、金銭面や肉体的老化によって苦しむ前に死んでしまいたいと思っているぼくにしてみれば、それもそれで良いのではないかと思ってみたりもするのだ。これは若さゆえの浅はかさであろうか。

 

要するにいつかは、人生からなお期待しうる肉体的快楽の総量が、苦痛の総量を下回るときがくる

 

ミシェル・ウエルベック素粒子野崎歓訳、ちくま文庫、338-339頁)

 

死でさえもが、体の機能を失って生きることほどむごくないと思える

 

(同書、339頁)