訳題
「ミシェル・ウエルベックの『セロトニン』:西洋文明の悲劇的運命の予言」
出典
van Wesemael, S., 2019. Sérotonine de Michel Houellebecq : prédiction du destin tragique de la civilisation occidentale. RELIEF - Revue Électronique de Littérature Française, 13(1), pp.54–66.
著者紹介
Sabine van Wesemael
博士。現在アムステルダム大学の Assistant professor。主な研究テーマは、フランスのモダニズムと現代小説。プルーストの研究を行う一方で、ウエルベックに関する論文や著書も多くある。
dr. S.M.E. (Sabine) van Wesemael - University of Amsterdam
要約
ウエルベックは、『ある島の可能性』のヴァンサン*1と同じように、社会とのあいだに一線を引いている。一方で彼とは異なり、作品で社会を批判している点で政治的である。つまり、彼は「社会参加する作家」auteur engagé というよりもむしろ「巻き込まれた作家」auteur impliqué *2である。たとえば、理想主義者が失望する様子*3を描いてサルトル的「アンガジュマン」engagement を批判する一方で、資本主義的価値観を批判する*4彼の小説には啓蒙的意図がある。同時代の社会を分析し、その問題点を指摘している点でウエルベックは「巻き込まれた作家」である。しかし、そうして明らかにされた問題点に対してなす術はなく、社会あるいは人生から「離脱」désengagement するしかないとされるため「社会参加する作家」とは言えない。さらに、ウエルベックは「大きな物語」による全体化を嫌っており、「大きな物語」を掲げる「一元的なアンガジュマン」engagement univoque に不信感を抱いている。
ウエルベックの小説で強調されるのは、自己や他者、社会からの疎外である。自衛のために『セロトニン』の主人公フロランは冷笑的になり、あらゆるアンガジュマンを否定する。生への積極的参加も否定される。ウエルベックは現代資本主義の生きづらさのなかでは精神が衰退し生存本能すら失われることを示す。
ウエルベックの社会批判は、自身の攻撃する規範や価値に対して登場人物たちが代替物を示せない様子を描くことで辛辣さを増している。一方、ウエルベックは過去のインタビューで、メディアが生み出す幻想に対抗するために皮肉や否定的態度、冷笑を持ち出すことは容易だが、それを乗り越えて、誠実かつ肯定的な言説を生むことは難しいとして、あらゆる本当のアンガジュマンは今後不可能だと断言してもいる。しかし、ウエルベック自身もそれらを乗り越えることはできておらず、悲観的な態度を示している。彼にとっては、「大きな物語」も理想も楽観的希望もすべてがまやかしである。それらを信じることを拒否するがゆえに、ウエルベックや彼の小説の主人公たちは政治に関わらない。彼らにとって最重要であることは真実を見つめて現実を示すことである。
ウエルベックにとって芸術とは、現実の混沌を、人間を引き裂く矛盾をできる限り誠実に表現することであり、それが道徳的かそうでないかは関係ない。ゆえに彼を政治的に位置づけることは困難であるし「社会参加する作家」と呼ぶこともできない。それどころか逆に、疎外状況からはいかなる真正な政治活動も生まれないとして、ウエルベックは作家のアンガジュマンに不快感を示している。ウエルベックの小説の主人公たちは未来にユートピアを求めるが、そのいずれもが混迷している。『セロトニン』においては未来ではなく過去に慰めが求められている。
フロランは乗り越え不可能なペシミスムに侵されており、それはウエルベックによれば現代人に共通する症候だ。『セロトニン』は無の勝利を宣告し、ウエルベックはふたたび「不吉な予言者」となった。人生に意味を付与する試みはすべて失敗する定めなのだ。
感想
ウエルベックは現代資本主義社会を批判するが、何かその代替物となる理想を掲げているわけではない。その意味で、彼は「巻き込まれた作家」と呼べる。というのはおもしろい観点だと思います。積極的に社会に参加しているのではないが、だからといって社会問題を取り扱っていないわけでもないということですね。社会に問題があるなら積極的に「参加」してそれを解決するべきだ、というのがサルトル的アンガジュマンとするなら、それは解決不能なものであるのだから「離脱」するしかない、というのがウエルベック的デザンガジュマンである。しかし、「闘争領域」が「拡大」した現代において、そこからの「離脱」はすなわち「死」であることを示してしまっているのが『セロトニン』である。これがこの論文の主張です。
ウエルベックを研究するうえでひとつ大きな問題となるのは、批判と絶望だけが刻み込まれた小説が社会を変えることができるのかということです*5。本論文では、否と答えられていると思います。ウエルベックは矛盾と幻想に満ちた現実を描くだけであり、不吉な予言者として捉えられます。彼は、有効な代替物すなわち理想を示さない。本論文に付されたレジュメでは「ウエルベックは代替物を提示できるのか?」という疑問が提起されています。それに対して本文中では明示的に答えが提示されてはいませんが、おそらくその答えは「しない」ということでしょう。その理由は、ウエルベックがあらゆる理想を幻想と見做しているから、そしてそもそも芸術(文学)の役割を代替物の提示だとはウエルベックが考えていないからだとされます。
しかし以上のことを否定的に捉えるべきではないと思います。なぜか。それはぼくがこの前書いた論文を読んでみてください。ちなみにこの論文の補遺的なものを近いうちにこのブログに載せたいなと思っています*6。とりあえず重要なことは、ウエルベックはぺシミスムを時代の病というよりも一種の戦略と見做しているということです。それは積極的ぺシミスムとでも呼ぶべきものなのです。
他におもしろかったところは、ウエルベックの小説の主人公たちは、受動的な疎外に対して、冷笑的になることで逆に自ら能動的に距離を置いているという見方です。疎外されているのではなく、自分から距離を取っているんだ、というある種の自衛本能として、ウエルベックの小説に特徴的な冷笑や皮肉というものを捉えているのが興味深かったです。
他には、『セロトニン』でフロランが家を探しているときに「ぼくは、からっぽで真っ白、何の飾りのない空間を探さなければならなかった」(274)«je devais rechercher le vide, le blanc et le nu»(330)と書かれているが、これはボードレールの「妄執」Obsession(『悪の華』所収)の «Car je recherche le vide, et le noir et le nu» という詩句を暗示しているのだろうという指摘が興味深かったです。たしかに。noir(黒)から blanc(白)への変更がおもしろい。また、この詩が「憂鬱と理想」Spleen et Idéal という章に含まれていることも注目に値しますね。
ウエルベックの社会分析が同時代人の特徴をよく捉えている証拠として、リオタールとリポヴェツキーの名が挙げられていました。リポヴェツキーの『空虚の時代』はウエルベックと結び付けられることが多く、ぼくも卒論で参考にしたのですが、かなりおもしろい本でした。ただ、リポヴェツキーの著作の邦訳はそれ一冊しかなくて、しかもそれがかなり難解なのであまり日本人に読まれていない気がします。他の著作も誰か邦訳してくれないかなぁ。
↑大きな物語の終焉について。
*1:芸術家。活動初期は芸術で世界を変えようとしていたが、失望ののちに、隠居して自分独自の世界を作ることに夢中になる。
*2:auteur impliqué は物語論の用語として「内包された作者」を意味する場合もあるが、この論文では engagé との対比で用いられていると考えて「巻き込まれた作家」と訳した。
*3:たとえば、エムリック。
*4:たとえば資本主義的価値観に染まったユズと過去の交際相手のケイトやカミーユを比較して後者を持ち上げる、など。
*5:トロツキーはセリーヌを「あいつは希望を書かないから革命的ではない」みたいに評したらしいですね。
*6:2021年4月7日追記:書きました。