菊地匠さんの個展「in Platea」の感想

先日、栃木県は足利市のGALLERY 碧で開かれた菊地匠さんの個展「in Platea」に行ったのでその感想をここに記す。ぼくは芸術の門外漢であるので以下に書かれるのは批評の類ではなくあくまでも感想であるということに留意されたい。

 

(下の文章を読むまえに、菊地匠さんのHP[https://www.kikuchitakumi.com/]で作品や展示風景を見ていただくと良いかと思います)

 

「Platea」はラテン語で「通り、街路」あるいは「中庭」を意味する語であるらしい。本個展は、この一見相反する意味を内包する語とマネの絵画とに共通する特性に対する気づきをもとに構築されている。菊地曰く、マネの絵画は既存のルールを打ち破った、つまり伝統的な絵画表現(対象や形式)の外に出たという点において「通り」性を持つ。さらには、抽象絵画に至る新たな表現形式を生み出した、つまり宗教や神話といった外部の秩序と手を切り芸術の内在秩序に従う新たな場を生み出したという点で「中庭」性を持つ。したがって、マネの絵画には「Platea」性がある。さらに菊地は、「Platea」という語が2世紀ごろには「中庭」という意味を失ったことにも着目する。「通り」と「中庭」、外と内とが重なる場としての「Platea」は遠い昔に失われてしまった。マネもまた現代の我々からすれば遠い存在である。この「隔たり」が「Platea」とマネを重ねる思考を生み出したと菊地は考える。加えて、「Platea」がかつて相反する意味に与えた同一性にベンヤミン的な「楽園」の同一性を見出す。そして失われた「楽園」もまた、現在から隔たったものである。こうして「Platea」という語には「通り」「中庭」「マネ」「楽園」といったイメージが重ねられる......

 

なぜ長々と個展そのものではなく、それを生み出すに至った思考について書いたのかというと、個展「in Platea」がその思考を表現するために精緻に構築されていると感じたからだ。

まず展示方法。展示会場はふたつの部屋からなり、入り口のあるひとつ目の部屋の一面はガラスとなっていて外から中があるいは中から外が見えるようになっている。一方、ふたつ目の部屋は外と隔てられており、壁は中庭から見た景色を描いた壁画で覆われている。つまり、ひとつ目の部屋が「Platea」の「通り」性を、ふたつ目の部屋が「中庭」性を表現しているのだという。この仕掛けを知ったときには体が震えた。知らないうちに「Platea」に足を踏み入れていただなんて。個展というものにはじめて行ったので他がどうなのかは知らないが、展示の仕方まで含めてひとつの芸術作品となっているという事態に感銘を受けた。

そして次に絵画作品。これに関しては本当に好き勝手書かせていただくが、前回の個展(「In Pause.」)に引き続き「隔たり」を思考したそれらの作品は鑑賞者に「宙づり」を促すものであるように思われる。対象物を写実的に描いたのではないそれらを見るとき、まず心に浮かぶのは何が描かれているのか分からないという不安である。人が描かれているように見える。泣いているように見える。いや笑っているようにも見える。いや待て、叫んでいるようにも見える。その絵はまるで鑑賞者がひとつの解釈に足をつけてしまうことを拒否しているかのようである。そのような宙づり状態のまま絵の前に立っていると徐々に、「そこに絵がある」という感覚が生まれてくる。そこで気がつく。もしかすると自分は今まで、絵を見ているはずが情報を読み取っていただけなのではないか、と。「宙づり」がひとつの存在を浮かび上がらせたのだ。絵を鑑賞するということが、ひとつの存在と対峙することであると気がつく。多様性、多重性は分かりにくさを生む。それは不安へとつながり、安易な陸地に足をつけてしまいそうになる。しかしその不安、宙づりにじっと耐えることではじめて、存在を存在として、つまり情報としてではなく存在として受け入れることができるのではないか。それは頭では分かっているつもりのことではあった。しかし今回ぼくはそれを体感した。

さらに、存在自体への讃歌であるような菊地の絵は「in Platea」という個展において、あるいは「Platea」という空間のなかでさらなる意味を持ったように感じる。エルンスト・ブロッホは『ユートピアの精神』を「わたしはある。わたしたちはある。/それで十分だ」と始める。わたしやわたしたちが何であるのかは問題ではなく、まずもって存在しているということ、それこそがユートピアを思考するための条件である、と。ゆえに、そこに描かれているものが何であるか決定することを「隔たり」によって鑑賞者にためらわせることによって存在自体を浮かび上がらせる菊地の絵はユートピアへとつながるものであるように思われる。ここにおいて、過去の「楽園」に対する「隔たり」の感覚は、未来の「ユートピア」に対する「隔たり」の感覚へと転換する。失われた「楽園」とまだ見ぬ「ユートピア」が「Platea」のもとで重なり合う。ならば「in Platea」の会場で、すなわち「Platea」で絵を見つめていたあのとき、もしかするとぼくはユートピアにいたのかもしれない。

 

 

追伸

菊地匠さんはとても良い文章を書く方なのでnoteの方[https://note.com/kikuchitakumi]もぜひ訪ねてみてください。