禁煙日記 2日目

 

朝から「煙草が吸いたーい」という気持ちで一杯だった。そんな状態でみなみ会館に『アンナ』を観に行った。劇中でみんなが煙草を旨そうに吸いまくるので、観ているあいだずっと口をもぞもぞさせてしまった。禁煙中に一昔前の映画(フランス映画に限らず)を観るのは危険。とても吸いたくなる。そういえば、煙草が出てくる映画を観たあとに吸う煙草はいつにも増して旨かったな。

 

映画と煙草といって一番最初に思い浮かぶのはトリュフォーの『突然炎のごとく』だ。マリー・デュボワが両切りの煙草の着火した側を咥えて息を吹き込むことで反対側から煙を出して機関車の物真似をする場面があるのだが、以前恋人の前でその真似をしたことがある。そのためにわざわざゴロワーズの両切りを買い、いざ着火した側を咥えてみると、口内に火は触れていないがやはり熱い。慌てて息を煙草に吹き込み、なんとか機関車の物真似をするデュボワの真似をすることができた。デュボワは劇中でわりと長く、しかも熱そうな顔ひとつせずに機関車の物真似をしていたので尊敬する。ちなみに、このまえ恋人の部屋にはじめてお邪魔したら、本棚に『突然炎のごとく』のDVDがあった。

 

ほかに映画と煙草というと、『サイコパス SS Case.3』の狡噛とフレデリカの会話の場面を見ていて、やはり映画に煙草は必要だと感じたことを思い出す。

禁煙日記 1日目

 

改めまして禁煙初日。結論から述べると禁煙に成功することができた。しかし、やはり頭の片隅から常に「煙草!」と呼びかけてくる細胞がおり、何事にも集中できない。また、飴とチョコレートを摂取し過ぎたのか、一夜にしてニキビが増えた。ニキビは漢字で書くと「面皰」らしい。

 

大学に向かう途中で電車が止まってしまったため三条のタリーズで勉強していたが、喫煙コーナーから席に戻ってきた人が煙草臭くて驚いた。自分が吸っているときはまったく気にならなかったので、たった1日吸わないだけでこれほど感覚が変わるのかと思った。あるいはホープのにおいがきついだけなのかもしれないが。

 

煙草を吸っているとよく勘違いされるが、自分も煙草の残臭は嫌いである。漂っている煙は好きだが、染み付いてしまうとひたすら臭い。吸い殻のにおいも好きではない。しかし、自分の身体や衣服に染み付いたにおいにはなぜかなかなか気が付けない。ただ、自分が臭いだろうなということは予想できるので、最近は煙草のにおいに効くリセッシュを常に持ち歩いて、喫茶店の喫煙席を去ったあとに自らに吹きかけたりしていた。

 

それはさておき、煙草のにおいのせいで煙草を吸いたくなってしまった。もうすこしでまったく知らない人に「煙草を1本ください」と声をかけるところだったが、シャイボーイなのでそんなことにはならず、なんとかその場をやり過ごした。喫煙コーナーがある喫茶店で勉強するのはもう駄目かもしれない。もはやマクドナルドに行くしかない。コーヒーが安いし。

禁煙日記 マイナス1日目〜0日目

 

マイナス1日目

 

実は約1ヶ月後に入院・手術を控えているのだが、今週の月曜日(2020年1月20日)に病院で入院前の説明を受けた際、「手術に影響が出るので、今すぐ禁煙してください。喫煙した場合、手術が延期になる可能性もあります」と言われたので、禁煙することにした。


喫煙歴は2年ほど。最初は半月で1箱ぐらいの頻度、一種のご褒美として吸っていたが、ここ1年ほどは1週間で2箱ほど、つまり1日にだいたい5本程度吸っている。いわゆるヘビースモーカーではまったくない。それゆえ、禁煙なんて簡単にできると思っていた。とりあえず月曜日は、吸わずに捨てるのはもったいないので手持ちの煙草をぜんぶ吸い切った。吸っている最中に、加熱式たばこ無料お試しキャンペーンの人が話しかけてきたので「明日から禁煙するので結構です」と断った。

 

 

0日目


翌日、禁煙初日。いつもは寝起きに喫煙するが、我慢する。特に禁断症状もなにもなく、午前が過ぎる。おかしくなりはじめたのは昼食を食べたあとだった。煙草が吸いたくてたまらないのだ。飴を舐めたり、チョコレートを食べたりと口のなかにものを突っ込んでおくことでなんとか乗り切ろうとするが、常に頭の片隅に「煙草!煙草!」と叫ぶ細胞がおり、何事にも集中できない。なんだか頭がふわふわする。しかし手元に煙草はない。コンビニに買いに行きそうになるが、「外は寒いぞ〜」と自分に言い聞かせることで外出する気力を削ぎ、堪える。

 

なんとか喫煙することなく、夕食の時間に達することができた。がんばった自分を讃えて夕食を食べる。煙草が吸いたくてたまらなくなる。そんなとき、自分が手巻きした煙草を入れておくためのシガレットケースを持っていることを思い出した。鞄からシガレットケースを取り出してみると果たして以前巻いた煙草が1本入っていた。たとえばこれを1ヶ月後まで置いていれば、乾燥してしまい吸えなくなるか、吸えたとしても旨くはないだろう。かといって捨ててしまうのはもったいない。頭のなかのワンガリ・マータイも「MOTTAINAI」と呼びかけている。

 

すこし暗くなりはじめたベランダで吸う煙草は非常に美味でありました。環境問題に配慮して吸う煙草は旨い。

 

その後、罪悪感に駆られてライターを処分した。

「アーケード」

恋人が、見た夢について話してくれたので文章にしました。

 

 

 

 だだっ広い公園にいる。砂地の周りに芝と木が生えているのが見える。遊具はない。公園ではないのかもしれない。遊具はないが、目の前に石でできた階段がある。一段一段が高く、上がるのに苦労する。どこへ続くかも分からないままのぼっていくと見晴らしのいい場所に出る。端っこに「〇〇商店街」と形作られた看板があり、ここが商店街のアーケードの上だと気がつく。商店街のアーケードの上には多くの人が列をなしている。その列の先頭に目をやると、人がひとりずつアーケードから落ちている。先頭まで行き、下を見ると赤く染まっている。アーケードの下の人たちはそれを避けることもなく、何事も起こっていないかのように往来している。ふと顔を上げると、列の動きが止まっている。なにやら先頭の男が騒いでいる。アーケードの下を見ながら叫んでいる。

「おれはだれにも迷惑をかけずに死にたいんだ! ここから飛び降りたら、もしかすると下を歩いている人にぶつかって殺してしまうかもしれない。おれはそんなことは望まない!」

 彼の後ろに並んでいる人たちは、彼を急かすことも退かすこともせず、ただ立っている。彼は文句を言いながらもそこを退く気配はない。立ち上がって彼のところまで行く。彼の後ろに立つ。彼の背中を押す。そしてわたしが先頭にいる。

本を出します!!!!!

〔2023年11月24日追記〕

増補版を出しました!!!

con2469.hatenablog.com

〔追記おわり〕

 

 

今年の1月と2月に公開した

の完全版を制作しました!!!!!『四百センチ毎秒の恋』という題名です。

 

表紙はこちら

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以下より買えます!

 

完全版ということで、ぼくが渡した短歌すべてとそれに対するコメントや散文形式の前後日談、京大短歌会に所属している金山仁美さんによる解説、そしてなんとぼくに短歌を渡された当人のKさんによるあとがきが収録されています!!!

すてきな表紙はなかじまちあきさん(@nkjmC)に描いていただきました!

ぶっちゃけ、自分はこの解説、あとがき、表紙をこの世に存在させるためにこの本を作ったのではないかと思うぐらい素晴らしいものを提供していただきました。みんな、ありがとう!

 

 

詳細

新書サイズで100ページです。書籍版が800円、PDF版が400円、書籍とPDFのセットが1000円です。

→ご好評につき書籍版・セット版は完売いたしました。ありがとうございます。再販の予定はございません。

PDF版はまだまだ販売中です!よろしくお願いします。

 

 

以下より買えます。

 

よろしくお願いします。

 

 

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補遺:ミシェル・ウエルベック "(C'est comme une veine qui court sous la peau)" 訳と解釈

この記事は、「カモガワGブックス vol.1 非英語圏文学特集」に西村トルソー名義で寄稿した「恋愛資本主義社会のミシェル・ウエルベックーー革命、闘争、中断/静止」の補遺です。この記事は単体で完結していますが、本誌と合わせてお読みいただくとさらにおもしろいと思います。

【告知】レビュー誌『カモガワGブックス vol.1 非英語圏文学特集』 - 機械仕掛けの鯨が

本誌は、C96日曜西こ30bの京大SF研ブースや福岡のajiroさん(http://www.kankanbou.com/ajirobooks/)で購入できるほか、booth(https://hanfpen.booth.pm/items/1476651)にて販売される予定です販売中です。

 

 

 

Poesie: avec Configuration du dernier rivage

Poesie: avec Configuration du dernier rivage

 

 

(C'est comme une veine qui court sous la peau)

Michel Houellebecq

 

C’est comme une veine qui court sous la peau, et que l’aiguille cherche à atteindre,

C’est comme un incendie si beau qu’on n’a pas envie de l’éteindre,

La peau est endurcie, par endroits presque bleue, et pourtant c’est un bain de fraîcheur au moment où pénètre l’aiguille,

Nous marchons dans la nuit et nos mains tremblent un peu, pourtant nos doigts se cherchent et pourtant nos yeux brillent.

 

C’est le matin dans la cuisine et les choses sont à leur place habituelle,

Par la fenêtre on voit les ruines et dans l’évier traîne une vague vaisselle,

Cependant tout est différent, la nouveauté de la situation est proprement incommensurable,

Hier en milieu de soirée tu le sais nous avons basculé dans le domaine de l’inéluctable.

 

Au moment où tes doigts tendres petites bêtes ont accroché les miens et ont commencé à les presser doucement

J’ai su qu’il importait très peu que je sois à tel moment ou à tel autre ton amant

J’ai vu quelque chose se former, qui ne pouvait être compris dans les catégories ordinaires,

Après certaines révolutions biologiques il y a vraiment de nouveaux cieux, il y a vraiment une nouvelle Terre.

 

Il ne s’est à peu près rien passé et pourtant il nous est impossible de nous délivrer du vertige

Quelque chose s’est mis en mouvement, des puissances avec lesquelles il n’est pas question qu’on transige,

Comme celles de l’opium ou du Christ, les victimes de l’amour sont d’abord des victimes bienheureuses

Et la vie qui circule en nous ce matin vient d’être augmentée dans des proportions prodigieuses.

 

C’est pourtant la même lumière, dans le matin, qui s’installe et qui augmente

Mais le monde perçu à deux a une signification entièrement différente;

Je ne sais plus vraiment si nous sommes dans l’amour ou dans l’action révolutionnaire,

Après que nous en avons parlé tous les deux, tu as acheté une biographie de Maximilien Robespierre.

 

Je sais que la résignation vient de partir avec la facilité d’une peau morte,

Je sais que son départ me remplit d’une joie incroyablement forte

Je sais que vient de s’ouvrir un pan d’histoire absolument inédit

Aujourd’hui et pour un temps indéterminé nous pénétrons dans un autre monde, et je sais que, dans cet autre monde, tout pourra être reconstruit.

Le sens du combat, 1996

 

 

 

(それは肌の下を走っていて……)

ミシェル・ウエルベック

 

それは肌の下を走っていて針が達しようと努めている静脈のようであり、

誰も消したがらないほど美しい火事のようである、

肌は凝り固まっていて、ところどころはほとんど青色である、しかしながら、針が入り込む瞬間に新しさが溢れる、

ぼくたちは夜を歩いていて、その手は少し震えている、しかし、その指は求め合い、その眼は輝いている。

 

台所は朝であり、諸々はいつも通りの場所にある、

窓の向こうに廃墟が見え、流しに空の食器が散らばっている、

それでも、あらゆるものが異なっている、立場の新しさはまともにははかり知れない、

昨晩のただなか、きみの知っての通り、ぼくたちは抗い難いものの領域に移行した。

 

きみの優しく小さい愚かな指がぼくの指を捕まえ、それらを優しく押し始めたとき、

ぼくはそのような瞬間にはいつでも、きみの愛人であるということがほとんど重要でないと知り

何かが形作られるのを見た、それは今まで通りの分類では理解できなかった、

ある生物学的な革命のたびに、新しい天が、新しい地球が真に存在している。

 

ほとんど何も起こらなかった、それでもぼくたちはめまいに襲われる

何かが動き始めた、それは誰しもが妥協するしかない力だ、

阿片の、あるいはキリストのそれらのように、愛の犠牲者はまずもって至福な犠牲者だ

そして、ぼくたちのなかを巡る生は、今朝、途方もなく増やされたところだ。

 

しかしながら、その朝、居着いて増大するのは、同じ光だ

しかし、ふたりで知覚された世界は、まったく異なる意味を持つ、

ぼくにはもはや、ぼくたちが愛のなかにいるのか、あるいは革命的な行動のなかにいるのか、本当に分からない、

ぼくたちがふたりでそのことについて話した後、きみはマクシミリアン・ロベスピエールの伝記を買った。

 

諦めが死んだ皮膚から難なく出てきたところだと、ぼくは知っている、

その出発によって自分が信じられないくらい強い喜びで満たされると、ぼくは知っている、

歴史の完全に斬新な一面が始まったところだと、ぼくは知っている

今日から無期限のあいだ、ぼくたちは別世界に入り込もう、そして、この別世界では、すべてが作り直され得るだろうということを、ぼくは知っている。

 

 

 

解釈

 全体的なテーマは愛と革命である。ウエルベックは、この詩において、歴史上の諸革命を個人の外側の世界を変えようとして失敗したものだと捉えており、それに代わるものとして、個人の内側の世界を変えるものとしての愛の革命を提示する。この詩は革命の失敗の繰り返しから愛の革命によって脱却を試みるさまを描く。

 

 第1連に出てくるce「それ」のはじめふたつは、肌の下にあり、近付くことを欲しているが近付くためには身を危険にさらさなければいけないものであり、達することに成功すると、un bain de fraîcheur「新しさが溢れる」ものであることから、第6連に出てくる、un autre monde「別世界」であると考えられる。un autre mondeが個人の内側に現れるものであることには、あとで触れる。

 この詩において、la peau「肌」は個人の外側と内側を隔てる境界線かつ外部を知覚するための器官として用いられている。それが凝り固まっているということは、知覚能力の低下を示している。ところどころ青いのは何度も針を刺したせいであろう。ここでのl’aiguille「針」は薬物摂取のためのものであると考えられるが、世界を変えるもの(すなわち、革命)の象徴として機能している。つまり、世界を変えようと多くの革命が行われたせいで、身体(フランスのメタファー?)が疲弊している。しかし、針が入り込む瞬間、つまり革命勃発時には、そのような過去は忘れ去られて、革命により生まれたun autre mondeをfraîcheurが溢れるようなものとして感じてしまう。そして、この詩においても、また何らかの革命が発生する。また、「針が入り込む」は性的なメタファーでもあると考えられ、今回の革命の発生要因は、je「ぼく」とtu「きみ」の性的交渉であると思われる。

 4行目で、手が震えているのはそのようにして生まれた新たな状況に緊張しているからだ。しかし、知覚のための器官である「指」と「眼」は活性化している。ここで外側の知覚が可能になっているが、それらは互いを知覚することだけに使われている。

 

 第1連から一夜明けて第2連が始まる。最初の2行で、外側は変わりないということが示される。そして、cependant「しかしながら」以降は変わったものについて記述される(ちなみに、この詩において、逆接は、記述の対象が、変わるものから変わらないもの、またその逆に変わることを示している)。外側は実際には変わっていないが、jeにとってはすべてが今までと異なっている。それは、jeとtuのあいだに愛が発生し、それにより関係性が変わったために、jeのla situation「立場/状況」が新しくなったからだ。その変化は昨晩発生したものであり、jeだけでなくふたり一緒でのl’inéluctable「抗い難いもの」=「愛」の領域への移行によるものである。

 

 第3連は第1連の4行目と同じく、知覚の活性化と限定を示している。第5連でふたりは一体化するが、一体化のためには互いが知覚されないといけないということが、これらのことから読み取れる。またその活性化の要因は第一連の「針が入り込む」ことである。

 2行目と3行目では、世界を変える未知のquelque chose「何か」、つまり愛が形作られる。それは、正規の関係ではない愛人関係のなかで生まれたが、jeにとってそんなことはどうでもいいことであった。

 ここで注目しておきたいのは、4行目でvraiment「本当に」といちいち念を押していることだ。まるで奇妙なものを見た子供の主張のように、本当であることを執拗に強調する。このことから、新しいcieux「天」やterre「地」があるというのはjeの思い込みであり本当にはないのではないのか、と考えられる。つまり、実際には外側は変わっていないが、内側が変わったjeにとっては変わったように見えているのだ。

 

 第4連。ほとんど何も起こらなかったということは、何かが起きたということであり、それは妥協せざるを得ないような力が動き始めたということである。その結果、ふたりはめまいにとらわれる。妥協せざるを得ない力というのは、愛のことであり、それはふたりそれぞれに生じるので、des puissancesと複数形である。めまいというのは、その愛の輝きによるものであり、盲目を生む。それは、ふたりそれぞれの知覚の消失を表しており、愛が生まれたのちには、外部が必要なくなることを示している。

 阿片は身体に害である。キリストは信者をみな罪人とする。しかし、両者はどちらも幸福を与える。それと同様に、愛は、犠牲は伴うが幸福を与えるものである。

 そして、ふたりの生命力(生きる意味?)は増大する。

 

 第5連、pourtant「しかしながら」により、話が外側に移る。今まで見たように内側に大きな変化が生じたにもかかわらず、朝の光は今までと変わらない。mais「しかし」により、話が内側に移る。外側の世界そのものに変化はないが、「ふたりで」知覚され内側で構成された世界は、今までとはまったく異なる意味を持っている。ここで、愛による一体化が起こっている。それぞれの知覚は消失したが、一体化したふたりの知覚が発生している。また、革命はひとりではなしえない。そして、一体化と世界を変えるものという特徴を持った愛と革命は、見分けがつかなくなる。愛は革命である。

 その後、tuがロベスピエールの伝記を買うのは、革命の失敗を知ることにより、愛の終わり方を知り、それを避けるためではないだろうか。ここで、ただ革命を失敗まで含めて繰り返していた人が、歴史に学び、歴史に参加する。つまり、革命をはじめとする過去の出来事を共時的にしか把握していなかった人が、通時的に把握するようになったということだ。

 

 第6連、皮膚は死んだ。これはふたりそれぞれの(あるいはje個人の)外側の知覚が完全に失われたということであり、外側を捨て去ったということだ。それがla résignation「諦め」である。今までは、外側の世界を変えることを諦めきれなかった。しかし、愛を知ったことにより、もう外側の世界を変える必要はなくなった。それは喜びを生む。

 un pan d'histoire absolument inédit「歴史の完全に斬新な一面」とは、一体化したふたりで歴史(ロベスピエール)を参照することによって生み出された、新たな歴史の筋道、つまり革命が失敗しないという未来である。その未来に向かう道のりが始まった。

 そして、今日から無期限の間、ふたりは別世界に入り込む。その別世界とはもちろん、第5連のle monde perçu à deux「ふたりで知覚された世界」のことである。これが、第1連に関するコメントの部分で、un autre mondeが内側に現れるものだと書いた理由だ。そして、そこではすべてが作り直され得るであろう。つまり、革命は成功する。ここで注目したいのは、第1連で出てきたpénétrerが再び使われている点だ。つまり、ふたりは針=革命となった。今までは、他の針を刺してきて失敗していたが、今回は自らが針となることで成功に至る。

 

 しかし、本当に成功するのだろうか。ふたりは一体化したはずであるのに、第六連ではjeが乱発される。また、第三連のvraimentと同様にje sais que「ぼくは知っている」にjeの思い込み、独りよがりを感じる。そして、ふたりが針になったことにも注目したい。この詩は、円環構造になっていると考えることができる。つまり、針となったふたりは、その後、その他の針と同じようなものになっていく。そして、革命を何回も実感するために、自らを刺し続けた結果、肌は凝り固まる。jeは別の女性との間に、新しい愛を見つけ出す。そのように考えると、révolutions「革命」が複数形であることにも納得がいく。つまり、愛という生物学的な革命は何度も起きるものであり、そのたびごとに新しいcieuxや新しいterreが存在するようにjeは感じるのだ。

 

 以上のことより、この詩は、愛ですら世界を変えることはできないという、ウエルベック的絶望が表現されたものであると考えられる。

 

分かりやすさに抗って|大前粟生『私と鰐と妹の部屋』読んだこと考えたこと

 大前粟生による奇妙奇天烈な53の短い物語がぼくの心に響くのは、それらの物語が「分からない」ことを受け止めてくれるからだと思う。

 

 奇妙奇天烈な物語というのは、絶景を見たときの感覚と同じものを読者に与えることが多い。表されるもの、目に見える外的な部分の衝撃的な印象に心を奪われる感覚だ。また、それは、見世物小屋で味わう感覚と似ている。それは、文字通り「好奇」の感覚だ。その感覚にとっては、奇妙であること、日常とかけ離れていること、が価値である。つまり、「分からない」ことに価値が置かれる。


 そのような感覚を喚起するものが奇妙奇天烈な物語であるとするならば、大前の掌編たちは、それらとは異なる軌を描く。たしかに、大前の描き出す物語には、妹の右目からビームが出たり、薔薇園に鰐がいたり、コンタクトレンズを食べたり、自分の名前を悪魔にしたり、無数のてるてる坊主をクッションにして昼寝したり、ジョン・トラボルタがエアコンの修理に来たり、妹をミイラにしたり、と外的な奇妙奇天烈さがある。しかし、そこには、「好奇」のまなざしの餌食となる奇妙奇天烈さ以外のものがある。そして、それこそが、大前粟生の魅力だ。それは、「分からない」ことを受け止めてくれる悲しい優しさだ。

 

 奇妙奇天烈さだけが求められた物語では、「分からない」ことはただの客寄せとして機能する。それは、「分かる」ことが当たり前としてあり、そのなかの特異点として「分からない」が設置されているということだ。「分かる」のなかに「分からない」がポツンとあるから奇妙奇天烈なのである。

 

 一方、大前の作品では、「分かる」ことは当たり前ではない。逆に、「分からない」が当たり前として提示される。提示される「分からない」には外的なものと内的なものとがある。大前は、外的な「分からない」を通じて、内的な「分からない」を描き出す。そして、それらを当たり前であるとすることで、「分からない」を受け止めてくれる。


 外的な「分からない」は、その行動が、状況が、「分からない」ということだ。対して、内的な「分からない」は、相手の考えていることが「分からない」、みんなの頭のなかが「分からない」ということだ。先に例を挙げたような外的な「分からない」を読者は感じる。それは奇妙奇天烈な世界によるものだ。他方、物語の登場人物たちは、内的な「分からない」を感じる。他者の行動の理由が、そのときの気持ちが、「分からない」。あるいは、他者が自分のことを「分からない」。これは日常的に存在するものだ。その外的な「分からない」と内的な「分からない」が重なり合うことで、奇妙奇天烈な世界に限らない「分からない」が描き出される。つまり、奇妙奇天烈な世界の描写を通じて、現実世界における他者理解の難しさが描き出されているのだ。


 最近は、分かりやすさを求める風潮が強い。その風潮は「分からない」ことへの恐怖、そして、それの排除、を生み出す。そのような状況で、自らのうちに「分からない」を持つ人たちは、それを隠して、抑圧して生きることを強いられている。それはとても苦しいことだと思う。大前粟生の物語は、奇妙奇天烈という道具を使って日常にありふれているはずの「分からない」を読者に示し、分からなくてもいいんだよ、それが当たり前なんだから、というふうに、そのような人たちを励ましてくれているような感じがする。


 「分からない」で溢れたこの物語たちは、「分からない」を受け止めてくれる。そこにはもちろん分かり合えない悲しさがあり、この1冊の本にはその悲しみが漂っている。しかし、それを否定しない物語たちは、とてもとても優しい。

 

 

私と鰐と妹の部屋

私と鰐と妹の部屋

 

 

 

これは大前粟生の前作について書いたものです。

 

 

回転草

回転草