分かりやすさに抗って|大前粟生『私と鰐と妹の部屋』読んだこと考えたこと

 大前粟生による奇妙奇天烈な53の短い物語がぼくの心に響くのは、それらの物語が「分からない」ことを受け止めてくれるからだと思う。

 

 奇妙奇天烈な物語というのは、絶景を見たときの感覚と同じものを読者に与えることが多い。表されるもの、目に見える外的な部分の衝撃的な印象に心を奪われる感覚だ。また、それは、見世物小屋で味わう感覚と似ている。それは、文字通り「好奇」の感覚だ。その感覚にとっては、奇妙であること、日常とかけ離れていること、が価値である。つまり、「分からない」ことに価値が置かれる。


 そのような感覚を喚起するものが奇妙奇天烈な物語であるとするならば、大前の掌編たちは、それらとは異なる軌を描く。たしかに、大前の描き出す物語には、妹の右目からビームが出たり、薔薇園に鰐がいたり、コンタクトレンズを食べたり、自分の名前を悪魔にしたり、無数のてるてる坊主をクッションにして昼寝したり、ジョン・トラボルタがエアコンの修理に来たり、妹をミイラにしたり、と外的な奇妙奇天烈さがある。しかし、そこには、「好奇」のまなざしの餌食となる奇妙奇天烈さ以外のものがある。そして、それこそが、大前粟生の魅力だ。それは、「分からない」ことを受け止めてくれる悲しい優しさだ。

 

 奇妙奇天烈さだけが求められた物語では、「分からない」ことはただの客寄せとして機能する。それは、「分かる」ことが当たり前としてあり、そのなかの特異点として「分からない」が設置されているということだ。「分かる」のなかに「分からない」がポツンとあるから奇妙奇天烈なのである。

 

 一方、大前の作品では、「分かる」ことは当たり前ではない。逆に、「分からない」が当たり前として提示される。提示される「分からない」には外的なものと内的なものとがある。大前は、外的な「分からない」を通じて、内的な「分からない」を描き出す。そして、それらを当たり前であるとすることで、「分からない」を受け止めてくれる。


 外的な「分からない」は、その行動が、状況が、「分からない」ということだ。対して、内的な「分からない」は、相手の考えていることが「分からない」、みんなの頭のなかが「分からない」ということだ。先に例を挙げたような外的な「分からない」を読者は感じる。それは奇妙奇天烈な世界によるものだ。他方、物語の登場人物たちは、内的な「分からない」を感じる。他者の行動の理由が、そのときの気持ちが、「分からない」。あるいは、他者が自分のことを「分からない」。これは日常的に存在するものだ。その外的な「分からない」と内的な「分からない」が重なり合うことで、奇妙奇天烈な世界に限らない「分からない」が描き出される。つまり、奇妙奇天烈な世界の描写を通じて、現実世界における他者理解の難しさが描き出されているのだ。


 最近は、分かりやすさを求める風潮が強い。その風潮は「分からない」ことへの恐怖、そして、それの排除、を生み出す。そのような状況で、自らのうちに「分からない」を持つ人たちは、それを隠して、抑圧して生きることを強いられている。それはとても苦しいことだと思う。大前粟生の物語は、奇妙奇天烈という道具を使って日常にありふれているはずの「分からない」を読者に示し、分からなくてもいいんだよ、それが当たり前なんだから、というふうに、そのような人たちを励ましてくれているような感じがする。


 「分からない」で溢れたこの物語たちは、「分からない」を受け止めてくれる。そこにはもちろん分かり合えない悲しさがあり、この1冊の本にはその悲しみが漂っている。しかし、それを否定しない物語たちは、とてもとても優しい。

 

 

私と鰐と妹の部屋

私と鰐と妹の部屋

 

 

 

これは大前粟生の前作について書いたものです。

 

 

回転草

回転草