リモート時代のシマック『都市』|読んだこと考えたこと

 

 

 

 クリフォード・D・シマックの『都市』は1952年に連作短編集としてアメリカで出版された。約70年前の想像力によって生み出されたこの作品は、実のところまさに今読まれるべきものである。なぜか。それは、この作品がリモート技術の発達した世界とそれがもたらす弊害を予見しているからだ。

 

 

 詳しい話の前に、本書の全体の構成を共有したい。

 この連作短編集の体裁は次の通りだ。

 人間がもはや神話上の存在となった未来では、ある人間の発明により知性を発達させた犬族が人間に代わって地球を支配している。そのような世界で、ある研究者(研究犬?)が犬族の起源に関わる伝承と、それを巡る考察を一冊にまとめた。それが本書である。

 我々読者は、なぜ地球上から人間がいなくなったのか、なぜ犬が地球を支配しているのかなどと考えながら作品を読み進めていくこととなる。短編は時系列順に8つ並べられており、それぞれの話の前に犬による注釈「覚え書」が挿入されている。この記事では、その中でも特に第1話から第3話までを扱う。

 その第1話から第3話までかけて描かれるのは、技術の発展による「肉体の離散」「精神の密集」「精神の離散」である。

 

 

 第1話では「肉体の離散」が主に扱われ、その弊害としての「精神の離散」についても触れられる。

 舞台は1990年。世界では水耕栽培が普及し、農地の価格が大幅に下落した。その結果として多くの人々は、安い価格で広い土地を得られる(元)農村へこぞって移住した。その移住を支えたのは交通手段の変化である。原子力の平和利用により安価になったヘリコプターや飛行機をひとりひとりが所有するようになった。このようにして都市からは人がいなくなり、人々は地理的に離散した。

 このことには思わぬ利点があった。それは、都市というものがほぼ消滅したせいで、戦争がしにくくなったということだ。つまり、原子爆弾を投下しようにも、都市に人はおらず、工場はあちこちに散らばっているため、効果的な投下目標を定めることができないのだ。登場人物のひとり、ジョン・J・ウエブスターは次のように言う。

 大多数の諸君は、諸君の都市に人がいなくなったからこそ、今日なお生存していられるのです。

 さて、この都市の滅亡状態は今後もなおこのまま存続させたいものであります。滅亡はまことに幸いなことであり、人類の歴史上最もよろこばしい事件と申すべきであります。*1

ちなみに歴史というのは皮肉なもので、この第1話が雑誌に掲載されたのは1944年である。

 しかしもちろん欠点もある。家と家の間隔は止まることなく広がり、通りすがりの挨拶や井戸端会議なども消えてしまった。近所付き合いが減り、新自由主義的な個人主義が拡大する。そして最後に残るのは「孤独」である。

 

 

 第2話では、「肉体の離散」による「精神の密集」という弊害が描かれる。

 舞台は2117年。居住地の拡大傾向は続き、人間は火星にも進出する。火星には火星人が先住民として存在しており、彼らは哲学の面で人間より優れている。人間は科学技術を火星に輸出し、哲学を火星から輸入することで両者の間には平和な関係が築かれている。

 この時代にはVR技術が発達しており、あらゆる感覚をバーチャル空間で味わえる。つまり、実際に外に出歩かなくても、まるで本当にそうしているかのように旅行ができるし、人と会うこともできる。

 しかしそのようなリモート生活は思わぬ弊害を生む。「広場恐怖症」である。これはある種の強烈なホームシックであり、発症すると、人の密集する場所へは行けなくなり、住み慣れた家から離れることもままならなくなってしまう。なぜなら、自分の人生、あるいは自分の一族の人生のすべてがひとつの場所に密集することにより、精神が「家」に囚われてしまうからだ。このようにして、移動の不要化を伴う「肉体の離散」は「精神の密集」を引き起こす。たとえば、第2話の主人公であり、優秀な医者であるジェロームは、ある火星人を救うために火星に向かうことを要請されるが、「広場恐怖症」のため、なかなか出発の決意を固めることができない。土地が、家が、家財道具が、彼を引き止めるのである。彼が火星に行けたのかどうかは、ぜひ本書を読んで確かめていただきたい。

 

 

 第3話で描かれるのは、「肉体の離散」による「精神の離散」である。

 この話の時代には、第2話で出てきたジェロームの孫、ブルースの研究により一部の犬が人間の言葉を理解し話すことができるようになっている。

 しかしここで最も問題となるのは犬ではない。それは「ミュータント」である。彼らは人間の突然変異種で、並の人間を遥かに凌ぐ頭脳を持っていることが特徴だ。実のところミュータントは昔から存在していたが、集団の中で生きていくために社会の枠組みに知らず知らず収まって能力を劣化させてしまっており、認知されてこなかった。つまり「何千年かの間、人類を団結させていたものは、社会の圧力だった」*2という言葉が示すように彼らの能力は社会の圧力によって制限されていた。しかし、技術の発達で人々が互いに離れて暮らすようになり(=団結しなくても生きていけるようになり)、そのような圧力から逃れられるミュータントが出現しはじめ、人の目につくようになった。

 人間が宇宙に気軽に行けるようになったのも実はミュータントのおかげだったということが話の途中で明らかになるように、その頭脳は人間の技術を何段階も飛び越えて発展させる。それならばミュータントという存在には何の問題もないように思われる。しかし、集団の枠に囚われない彼らには欠けているものがある。それは人間が今まで集団生活を営むために培ってきたあらゆる倫理観である。彼らは、誰かのために行動することもないし、理想や理念といったものも持たない。常に他人を見下し、気まぐれである。協力し合うことはあっても、それは互いの利害が一致するから、あるいは単におもしろそうだからであり、そこに思いやりなどというものはない。「肉体の離散」が「精神の離散」に繋がるのだ。

 シマックはおそらく、人間の肉体的な離散傾向が続けば、人間から精神的な団結までもなくなるだろうという予測している。そこに残るのは完膚なきまでの個人主義であり、利害と刺激だけの世界である。人々が互いに手を取り合って文明を発展させていくような未来は、そこには存在しない。

 

 

 以上のように『都市』は、リモート技術をはじめとする科学技術の発達により、人間の精神にどのような変化が起こるのかを描き出している。もちろん約70年前の作品なのでツッコミどころは多くある。*3また、これは別記事で紹介しているが、本書はシマックの反人間主義が色濃く出た作品となっており、人間に対してかなり冷たい視線が注がれているというのも事実だ。さらには、本書で描かれるような世界の方が良いと思う人もいるだろう。しかし本書を読むことで、現在、まるで救世主かのように持て囃されるリモート技術、リモート生活に対して、その是非をもう一度問い直してみるのも良いのではないだろうか。

 

 

追伸

 ハヤカワ文庫の後書きにも書かれているように、『都市』には上で書いたようなこと以外にも実に多くの要素が含まれていて、様々な問題が提起されています。たとえば、ロボットと人間の関係や認識論的変容、異次元についてなどです。あと語り方がめちゃくちゃ上手い。どんどん引き込まれるし、終盤で伏線回収された時には膝を打った。なので是非実際に読んでいただきたい。のですが、現在絶版となっており、Amazonの中古価格もなかなか高めのものが多いです。しかし諦めずに図書館などで借りてみてください。あと早川書房は早くこれを復刊してください。

 

 

 

 

*1:クリフォード・D・シマック(1976)『都市』林克己他訳、早川書房、p.35

*2:同書p.133

*3:たとえば第2話で言えば、そんだけ技術が発達しているならリモート手術もできるでしょ、とか。