論文紹介|Feyel, Juliette(2016)≪Présent rétrospectif et détour post-humain chez Clifford Simak et Michel Houellebecq≫

※本記事はウエルベック素粒子』『ある島の可能性』についてのネタバレを含みます。

 

訳題
クリフォード・シマックミシェル・ウエルベックにおける回顧的現在とポストヒューマン的支流」

 

出典

Juliette Feyel, « Présent rétrospectif et détour post-humain chez Clifford Simak et Michel Houellebecq », ReS Futurae [En ligne], 7 | 2016, mis en ligne le 30 juin 2016.

journals.openedition.org

 

著者紹介

Juliette Feyel

博士(比較文学)。現在ケンブリッジ大学の Bye-fellow。主な研究テーマは、文学・映画・バンドデシネにおける肉体の主観性の近現代的表現。2013年にバタイユに関する単著を出版している。

Juliette Feyel | University of Cambridge - Academia.edu

 

要約
 シマック『都市』*1ウエルベック素粒子*2ある島の可能性*3は同じ手法を用いている。それは両者にとっての現在を、未来から、そして人間以後の存在の視点から描くものである。両者は共に同時代的な悪と絡めて現在を批判するためにこの手法を用いた。

 しかし相違点もある。シマックは、原爆投下と冷戦という核の恐怖を背景として人間の科学技術を批判し、あらゆる技術発明と科学を取り除くことで悪が消えた理想世界を思い描く。一方でウエルベックは、1968年に加速したモラルの低下を嘆き、不死になった快楽主義者の夢によって生まれたぞっとするような世界を思い描いている。すなわち未来において、シマックの作品では現在の悪が根絶され、ウエルベックの作品では現在の悪が保存かつ拡大されている。したがってウエルベック作品に、あり得る未来あるいは望ましい未来を見出す最近の解釈は誤っている。
 シマックはポスト人間主義者ではない。なぜなら、『都市』において人間以後の存在であるはずの「犬」は擬人化されてしまっているからだ。またエコロジストでもないし、普遍的な友愛の擁護者でもない。彼は反人間主義者であり、人間の根絶を望んでいるのである。一方、ウエルベックは『ある島の可能性』のなかで『都市』を暗示させつつ、登場人物(ダニエル25)にラディカルなエコロジー思想を反人間的であると批判させている。*4これは、ウエルベックがシマックに反人間的なニヒリズムを見出していたことの証左である。
 『ある島の可能性』のラストについては解釈者の人間主義に対する立ち位置によって解釈が割れている。それらは大まかに分けて、ウエルベックは①反人間主義者である②ポスト人間主義者である③いまだ人間主義を脱することができていない④文字通りの人間主義に希望を見出している、の4つである。しかし、クローンが人間の書いたもの*5を読むことでその生き方を変えようとする点で、このラストは人間主義の勝利であると考えられる。
 シマック『都市』は持続可能な社会のための政治的申し立てとして読まれるべきではない。なぜならその根底にあるのは人間に対する極度の嫌悪であるからだ。また、ウエルベックをポスト人間主義者だと考えるべきでもない。彼は根本的な精神変容がなければ、科学技術の発展はただ単に既存の悪を増大させるものだと考え、人間超越主義を批判しているように思える。さらに、ウエルベックの作品が否定している人間主義はあくまで個人主義的なものであり、ルネッサンス啓蒙主義の精神、すなわち物語の力はまだ信じられている。

 

 

感想

 『ある島の可能性』で人間主義が勝利しているというのは納得がいく。というのも個人的に、ウエルベックの小説を読んでいると、一見反人間的であるようだが実は人間に期待を寄せてもいるようにも見えると思っていたからだ。そのようにウエルベック作品を読めばこそ、最新作『セロトニン』のラストにおける人間への諦め、憤りが浮かび上がる。ウエルベックが読者に、そして人間に期待していたことは、『ある島の可能性』のダニエル25のように文章を読み、また自ら書くことによってその人の世界認識がひっくり返ることなのではないだろうか。

 たとえば、ウエルベックのエッセイ『ショーペンハウアーとともに』は、終盤までずっとショーペンハウアーの文章に賛同しているが、急に「ほんとうにそうだろうか」*6と疑問が呈され最終的に未完で終わる。大学時代に出会って以来影響を受け続けてきたショーペンハウアーを、それでもなおひたすら読み込むことにより、彼のなかに何らかの変容が生まれたのだ。ダニエル25は、ダニエル1の手記を読み続けるうちに、外部から推奨されている読み、かつての自分がしていたような読みができなくなった。*7ウエルベックも、ショーペンハウアーを読み続けるうちに、かつての自分が読んだようには読めなくなった。このように徹底的に読み、そして書くことにより精神的変容が生じること。それこそがウエルベックの賭け金なのではないだろうか。

 と、まあこんな話を思いついたのは最近佐々木中氏の『切りとれ、あの祈る手を』を読んでいるからなのですが。『ある島の可能性』はぜひ『切りとれ、あの祈る手を』とセットで読んでみてください。『ある島の可能性』が「文学」の話でもあるということが明らかになります。

 他に、要約外で興味深かった話は、『ある島の可能性』の未来では、自らをクローン化できたネオ・ヒューマンとできなかった(あるいはあえてしなかった)野人が存在しているが、これは我々の現在の格差が保存かつ拡大された結果であり、このような未来観はウェルズ『タイムマシン』と共通しているという指摘だ。

 もうひとつは、『ある島の可能性』の最後の2文(原文だと3文)についての解釈だ。「僕はここに在りながら、もはやここにはいない。それでも生は実在する」。*8ここでダニエル25は人間にとって無限の象徴だった海に身を浸すことにより、自分という境界=限界のない状態、いわば非人称的生を感じている。永遠の命(時間的無限)を手に入れると同時に個人という檻にさらに強く閉じ込められてしまったクローンが、ふたたび(空間的)無限を感じとる瞬間。Feyel はこれを非人称的生の実現の瞬間として肯定的に捉える。これはもう少しじっくりと考えたい意見。諸手を挙げては賛成できない。つまり、ダニエル25が非人称的生を確かに感じていたとしても、その事実をダニエル25が、そしてウエルベックが肯定的に捉えているのか否定的に捉えているのかはまだ判断できない。ウエルベックがそれに対してどのような考えを持っているのか、他の部分や他の作品を調べてみないと。

 

 

ある島の可能性 (河出文庫)

ある島の可能性 (河出文庫)

 

 

素粒子 (ちくま文庫)

素粒子 (ちくま文庫)

 

 

 

ショーペンハウアーとともに

ショーペンハウアーとともに

 

 

セロトニン

セロトニン

 

 

タイムマシン (角川文庫)

タイムマシン (角川文庫)

 

 

 

*1:科学技術の発展と認識論的転回によってほとんどの人間が地球上からいなくなる様と、科学技術によって人間の言語を操れるようになった犬族がその後の地球を統治していく様を描く。

*2:ミシェルとブリュノという異父兄弟の人生を通じて、現代の愛と自由にまつわる問題を描き出す。エピローグにおいて、この物語が実は未来のポストヒューマン的存在によって語られていたことが明らかになる。

*3:ダニエル1という我々の現在に生きた人間の手記を、ダニエル24・25という未来のクローンが読むという形式で物語が進む。

*4:狼や熊、昆虫、ダニについて言及されるが、これらはすべて『都市』の「イソップ」という章に登場する生物である。ゆえに、ウエルベックが『都市』を念頭においているのではないかと考えられる。

*5:未来では、人間の愚かさを乗り越えるために自らのオリジナルが書いた手記を読むことが推奨されている。しかし、それを読むことで逆に現在の生活に疑問を感じ、かつての人間のような暮らしを望むクローンが出現し出す。ダニエル25もそのひとりである。

*6:ミシェル・ウエルベック(2019)『ショーペンハウアーとともに』澤田直訳、国書刊行会、p.119

*7:そういえばウエルベックはエッセイのなかで、外部を自分から切り離すためのものとして読書を勧めていましたね。

*8:ミシェル・ウエルベック(2016)『ある島の可能性中村佳子訳、河出書房新社、p.526