なぜ初デートで映画を観にいくのか|アラン・バディウ『愛の世紀』読んだこと考えたこと

恋愛的に気になる人を初めてデート*1に誘うとき、映画を観にいくことが頻繁に選ばれているように感じます。しかし、なぜ映画なのでしょうか。せっかく初めてふたりきりで出かけるのに、大抵の場合2時間ほどは沈黙を強いられる映画を観るという行為がなぜ選ばれるのでしょうか。しかも、その映画が相手の好みに合致する保証などなく、最悪の場合、悪趣味な人間だと思われてしまう可能性もある博打的行為であるように思われます。*2

それならば、天気の良い日に、ふたりで河川敷でも散歩しながらおしゃべりを楽しんだほうが良いのではないでしょうか。ぼくは常々そのように思っていました。

しかし、実は、ふたりで映画を観るという行為は、恋愛において最も重要な点に関わるものであり、初デートで映画を観にいくことには十分な妥当性があったのです。

今回の記事では、フランスの哲学者であるアラン・バディウと同じくフランスのジャーナリストであるニコラ・トリュオングとが行った対談の書籍化である『愛の世紀』(市川崇訳、水声社、2012)に基づいて、なぜ初デートでは映画を観にいくべきなのかを明らかにしてみようと思います。

 

 

恋愛とは、差異に関する真理の生成過程である
初デート、というのはつまり、恋愛の過程におけるひとつの要素です。では、そもそも恋愛というのは、どういったものであるのでしょうか。

 

バディウは、「愛とは(…)ひとつの真理の構築である」*3と言います。そして、その真理とは、「一者ではなく二人であることから始めて経験される世界とは何か、同一性ではなく、差異を受け入れることから検討され、実践され、生きられる世界とは何か、という問題」*4についての真理だと言います。また、次のようにも言います。

 

わたしは、愛とは実際に、わたしが哲学上の専門用語を用いて「真理の生成過程」と名付けるもの、つまりあるタイプの真理がそのなかで構築されるような経験である、と主張します。この真理とは、まったく単純に「二であること」に関わる真理、いわゆる差異についての真理です。そしてわたしは、愛(わたしが「二者の情景」と呼ぶもの)とは、この経験であると考えます。*5


つまり、以上のことを踏まえると、恋愛とは、差異に関する真理の生成過程であるということになります。また、差異に関する真理の構築とは、「差異から出発する世界の構築」*6と言い換えることができます。

 

 

恋愛とは、出会いではなく融合でもない
バディウは、恋愛が一種の過程であることにこだわり、ロマン主義的な恋愛を批判します。


ロマン主義的恋愛において、愛は、「出会いというあるがままの世界に対して外在的な」*7瞬間において燃え尽きるものであるとバディウは指摘します。それは「融合的な出会い」*8であり、そこからは「二者の情景」ではなく、「一者の情景」*9しか生まれません。

 

二人の恋人たちが出会い、世界に対立する一者のヒロイズムのような何かが生じたのです。われわれは、ロマン主義的な神話の表象においては非常に頻繁に、この融合の地点が死へと導くのだ、と指摘できるでしょう。(…)それは、(…)例外的な出会いの瞬間に愛が使い果たされるからであり、それ以降、恋人たちに対して外在的なものにとどまる世界には、彼らはもはや戻れないからです。*10


二者は出会いにおいて愛を使い果たすことで融合することができますが、そうした一者は世界と対立し、元の世界に戻ることも、新しい世界を構築することもできません。そうして、死ぬしかなくなるのです。それは、恋愛が差異から始まる世界の構築の過程であることを知らず、それを出会いに集約することで二者の融合を求めたからです。


以上のことから分かるのは、恋愛とは決して出会いに集約されるものではなく、また、その目的は融合ではないということです。それは、恋愛が、「二者の情景」が世界を構築していく過程であるからです。

 

 

出会いという「出来事」
では、バディウにとって、恋愛における出会いとはどのようなものなのでしょうか。


バディウにとって、出会いは「世界の内部に生じる」*11ものです。それは、世界内の既存の法則では予測不可能であった「出来事」*12です。それは、「二であること」*13の出現という「出来事」であり、それゆえ偶然的です。ここでの「二であること」とは、「二人の個人のあいだの絶対的差異」のことであり、それは「無限の差異である以上、考えられる限り最も大きな差異のひとつ」*14です。


ところで、ここで使われる「出来事」という言葉にはバディウ独自の意味が込められています。

訳者の市川崇による訳注によると、バディウは「特定の状況内に含まれていなかった新たな局面」、つまり、「真理の生成を可能にする」(真理生成の始点となる)局面を「場」*15と呼び、「状況内の他の要素に与えるその影響が最大であるとき」*16、それを「出来事」と呼びます。

したがって、「出来事」は特定の状況内、つまり世界内に生じるものであり、そこから始まる恋愛も世界内に生じます。また、「場」「出来事」=出会いは、「新たな局面」であるゆえ、「諸事物を統べる直接的な法則の支配下*17には入りません。だから、出会いは偶然の装いをしているのです。そして、そこから始まる恋愛も当然その支配下に入りません。*18

さらに、「この『出来事』は、ひとつの現実世界の内部において、多様な形態を持つその諸帰結を通じてのみ現実性を獲得」*19します。つまり、「出来事」にとって重要なことは、その後どのようにそれが展開するかということなのです。


まとめると、ロマン主義的恋愛にとって出会いとは、一度きりの融合経験でしたが、バディウにとってそれは、その後の展開が重要であるような、絶対的差異の認識という「出来事」なのです。したがって、恋愛は「持続的な構築」、「執拗な冒険」であり、「出会いに還元されるわけではない」のです。そして、「真の愛とは、(…)諸々の障害を、長期にわたって厳粛な態度で打破するような愛のこと」*20なのです。

 

 

愛の告白による偶然の定着
さて、出会いがどのようなものかが分かったところで、次は、それがどのように過程の一部となるのかを見ていきましょう。


バディウは、出会いという「偶然は、あるとき定着されなければなりません。偶然はまさに、持続を開始しなければならない」*21と言います。そして、その定着は愛の告白によってなされます。

 

愛を告白するとは、出会い=出来事から真理の構築の開始へと移ることです。それは、始まりという形式のもとに出会いの偶然を定着させることです。*22


つまり、愛の告白によって出会いという偶然が恋愛の過程の始点として定着し、そこから真理の構築の持続が開始されるのです。また、愛の告白をバディウは重視します。

 

[愛の告白]は常に、偶然に過ぎなかったことから何か別のことを引き出そうと思う、という意図で発せられる言葉です。わたしはそこから、持続、執拗さ、約束、忠実さを引き出そうとするのです。*23


ここで引き出される忠実さは、恋愛のすべての元となる要素です。それは、「発端にある愛の告白」が、「出会いがその偶然性から解放されるように、持続を構築するという約束」*24であることを示します。

 

愛における忠実さとは、この長期にわたる偶然に対する勝利を意味しています。出会いの偶然性が日々、ひとつの世界の誕生を可能にする持続の創造によって打ち破られていくのです。*25


こうして、出会いは恋愛の過程に定着され、世界の構築という持続が始まるのです。そこにおいて、「出会いや告白、忠実さ」といった恋愛の諸要素によって、「二人の個人のあいだの絶対的差異」は「創造的な存在」*26に変えられます。

 

 

差異から世界を創造する主体
「創造的な存在」とは何でしょうか。それは恋愛の過程において真理を構築する主体のことです。つまり、先に出てきた「二者の情景」のことです。


今まで見てきた通り、恋愛とは出会いに還元されるものでも融合を目指すものでもなく、ひとつの構築です。その構築を行うのが、「一者の視点からではなく、二者の観点から織りなされる生」*27、すなわち、「二者の情景」なのです。ここでは、あくまでも「二者」、その差異が重要視されています。なぜなら、恋愛とは、絶対的差異を受け入れたうえで始まる新しい世界の構築過程であり、そこにおいて「差異についてポジティヴで、肯定的かつ創造的な経験」*28をすることで、差異に価値を見出すものであるからです。


また、「二者の情景」とは、「〔大文字の〕主体」*29のことでもあります。

バディウの言う「主体」とは、訳注によると、「出来事」が新たな真理の生成を促すとき(すなわち、愛とは「同一的なものをめぐる差異」*30であると直感的に理解するとき)に、その「出来事」に忠実な、その真理の普遍性を体現するものとして、経験的個人を超えて成立する主観性のことです。

重要なことは、その「主体」のなかで、個人は個別性を失って消失するわけではないということです。つまり、恋愛の「主体」においては、ふたりは差異をあくまで保持し、その隣接的関係を保たなければいけないのです。

逆に、「二人の個人がその差異の解消を求め、一者としての合一を目指すとき、それは融合的主体、暗黒の主体」*31となってしまいます。これは先に出てきた「一者の情景」と同じものです。「暗黒の主体」は、「二人であること」*32=「差異があること」によって生まれる世界の無限性を嫉妬によって破壊し、融合的な「一者というフィクション」*33として君臨します。その例を恋愛以外から挙げるとすれば、ナチスによって生み出された「ドイツ民族」だと言えるでしょう。


さて、そうして生まれた「主体」は、「差異というプリズムを通じて世界の展開に触れ」、それにより世界は、自分の「個人的な視界を満たすものとなる代わりに、新たに到来し、誕生」*34します。それが、恋愛における、世界の創造です。差異から世界を創造する主体、それが、「創造的存在」=「二者の情景」=「主体」なのです。

 


回帰する「出来事」
また、バディウによると「主体」を生み出すような「出来事」は、恋愛の過程において「点」として何度も回帰します。逆に、その「点」をたどる過程が恋愛であるとも言えるでしょう。

 

「点」とは、(…)真理の構築の諸帰結が、あなたが「出来事」を受け入れ、それを宣言した最初の瞬間におけるように、根本的な選択をやり直すようあなたに強いる、そんな瞬間です。*35


つまり、「点」にぶつかると、世界は、「出来事」と遭遇したときのように、再創造されなければならないのです。これが、恋愛が過程であり、持続であることの理由です。最初に生み出された世界は完璧なものではなく、不断に再構築されるのです。

 

 

反動的主体
バディウによる恋愛論の最後として、恋愛における困難にも目を向けたいと思います。


まず、「主体」に対置されるものとして、先にも出た「暗黒の主体」が挙げられます。そして、もうひとつ、「反動的主体」*36が挙げられます。これは、同一性と安全に価値を置く主体のことです。それは差異と偶然を恋愛から排除しようとします。


では、なぜこのような主体が生まれてしまうのでしょうか。

バディウは、「愛の生成過程は、主観的な生にとって最も苦痛に満ちた経験だ」*37と言います。それは、その生成過程に内在する困難に起因します。つまり、(乗り越えがたい)差異が生み出す困難です。

その困難に耐えられなくなると、「差異に対して同一性を求める『自我』、差異のプリズムを通じて再構築される世界に対して自らの世界を押し付ける『自我』」*38が力を持ち、「反動的主体」が生まれます。また、その困難を先に避けようとする行動を取る、つまり乗り越え不可能な差異が存在しない関係を事前調整することで偶然を排除することによっても、「反動的主体」は生まれます。

 

 

恋愛とは何か
まとめると、恋愛において問題であるのは、「人が二人であるときに、差異を受け入れ、それを創造的なものにすることができるのか」*39であるということが言えます。恋愛とは、差異と偶然に価値を置き、新しい世界の創造を持続することであると言えるでしょう。

 


ようやく、なぜ初デートで映画を観にいくべきかについて書きたいと思います。結論から述べると、映画が同一性を強いてくるものであるからです。

 

 

見ることの死
吉田喜重は、『小津安二郎の反映画』(岩波現代文庫、2011)のなかで次のように言います。

 

多くの映画監督たちはこうした人間性[(普遍的な人間性)]に期待し依存しながら、作為的にモンタージュされた映像に観客がかならずひとつの意味を読み取ることを信じたのである。*40

 

映画はコマーシャリズムの影響を受けるあまり、おびただしい観客を集めようとして普遍的な人間性という名によって喜怒哀楽をパターン化し、われわれの感情をたえず同一に制御するためにモンタージュ手法を濫用するようになる。*41

 

映画を見るという行為は、一瞬たりとも休むことのない時間の速度にとらわれ、その奴隷と化することでもあった。(…)映画は一方通行的に早い速度で流れる時間に圧倒されて、ついにはひとつの意味しか見出せない危険な表現であり、二十世紀の国家権力やコマーシャリズムが濫用し、悪用したのも、こうした映画における見ることの死であったのである。*42


つまり、映画はひとつの意味=同一性をその鑑賞者に強いるものでありうるのです。

吉田は絵や写真を見るときの、絶えず続く数え切れないほどの無意識の眼の動きによって支えられている視線のことを「生きた眼差し」*43と言います。そこにおいて、視線は自由です。

それに対して、映画を観るときに、視線が、無意識の眼の動きの否定によってひとつの視点に集中するように抑圧されることを「見ることの死」と呼びます。そこにおいて、自由な視線は否定されてしまいます。つまり、自由な読み取りを可能にする、すなわち差異を生み出す視線が否定されているのです。「見ることの死」によって、映画から差異を生み出すことは封じ込められるのです。

 

 

言葉と映像
また、吉田は言葉と映像も対比します。

 

言葉によって喚起される想像力は、われわれによってその言葉が自由に解読されるかぎり、限りなく開かれており、ひとつの意味に集約されることはない。だが映像はそれが示された瞬間、ただちにその意味内容がはっきり伝達され、限定されるあまり、想像力は途絶えて死滅しかねないものであった。*44


言葉は差異を許容しますが、映像はそれを死滅させる恐れのあるものなのです。

 


以上で見たように、「生きた眼差し」で見ることができるもの(映画あるいは映像以外の全部と言えるでしょう)や言葉で表されるものは、意味が自由に開かれており、そこから読み取られるものには多様な差異が含まれているでしょう。他方、映画はそのような差異を封じ込めようとしてきます。ここに、初デートで映画を観にいくべき理由があるのです。

 

 

それでも生まれる差異、それが大事
「生きた眼差し」で見ることができるものや言葉で表されるものをふたりで鑑賞して、差異を認識するのは、言ってしまえば当たり前です。逆に言えば、そこでふたりの差異を認識できないというのは、ありがたくない奇跡でないならば、同一性への感受性だけに脳みそを支配されている状態に陥っているということを示しているでしょう。

一方、同一性を強いてくる映画をふたりで鑑賞して、差異を認識したとすると、その差異は、決定的な、本質的な差異であるということができるでしょう。

同一性に押し込まれたときに、それでも生じるような差異。初デートでそのような差異に出会うことが大切なのです。そして、それは愛の第一の試練とでも呼べるものを引き起こすのです。

 

 

愛における第一の試練
まず、それは、映画という外在的な同一性への圧力に屈せずに、ふたりで差異を認識できるか(ふたりの感想における相違点を認識できるか)という試練となります。

次に、内在的な同一性への衝動に屈せずに、ふたりで差異に価値を置けるか(お互いの感想を頭ごなしに否定したりしないか)という試練となります。

そして、最後に、その差異によって「創造的存在」になることができるか(ふたりの感想が合わさることでそれぞれの頭にもなかったような新しい感想を生み出せるかどうか)という試練となります。


これらは、愛の第一の試練と呼ぶことができるでしょう。この試練は、「最初」と「根本的」というふたつの意味で「第一」です。なぜなら、初デートなのだからもちろん「最初」ですし、それは世界構築そのものであるので「根本的」です。

つまり、初デートで映画を観るというのは、お試し世界構築であると言えます。

その試練をうまく乗り越えられたのならば、その後の恋愛の過程もふたりで歩んでいけるでしょう。逆に、乗り越えられなかった場合、冷静になってもう一度考えてみるべきでしょう。このような判断を生むのが、初デートで映画を観るという行為なのです。

 

 

まとめ
なぜ初デートで映画を観にいくのか。それが試練だからです。ふたりに、差異から始まる世界構築をできるかどうか尋ねるものだからです。その試練を通じて、ふたりは恋愛の過程に飛び込むか飛び込まないかの判断をするのです。


みなさん、初デートでは映画を観にいきましょう。ただし、小津安二郎の映画のような意味が多様に開いた映画ではなく、鑑賞者を泣かせることだけが目的に据えられたような映画を選びましょう。

 

 

愛の世紀

愛の世紀

 

 

小津安二郎の反映画 (岩波現代文庫)

小津安二郎の反映画 (岩波現代文庫)

 

 



 

*1:ここでは、デートとは、片方があるいはお互いに相手に好意を抱いている状態でふたりきりで出かけることと定義します。

*2:ぼくが高校でお世話になった数学教師は初デートで『時計じかけのオレンジ』を観にいったらしいです。ハイセンス

*3:『愛の世紀』p.41(以下同著より)

*4:p.42

*5:p.64

*6:p.43

*7:p.52

*8:p.52

*9:p.52

*10:p.53

*11:p.53

*12:p.44

*13:p.50

*14:p.86

*15:p.153

*16:p.154

*17:p.51

*18:ここに、「法に対する侵犯」(p.135)としての恋愛の性質を認めることができますが、今回は深入りしません。

*19:p.44

*20:p.54

*21:p.66

*22:p.68

*23:p.70

*24:p.71

*25:p.71

*26:p.86

*27:pp.51-52

*28:p.94

*29:p.45

*30:p.45

*31:p.153

*32:p.169

*33:p.169

*34:p.45

*35:pp.76-77

*36:p.169

*37:p.89

*38:p.89

*39:p.82

*40:小津安二郎の反映画』p.61(以下同著より)

*41:pp.61-62

*42:p.74

*43:p.71

*44:p.199