ジャン=リュック・ナンシー『恋愛について』読んだこと考えたこと

    どうして人は好きな人に「好きだ」と伝えるのでしょうか。永遠に片想いをしている方が傷付かないでいられるのに。どうして恋人たちは手を繋いで歩くのでしょうか。歩きにくいと思うのですが。そんな風に恋愛に関して分からないことばかりだったぼくはひょんなことから一冊の本に出会いました。その本は、フランスの哲学者ジャン=リュック・ナンシーが2008年に子供たちに向けて行った講演とその後の質疑応答を書き起こしたものです。普段は難解な哲学書を書いているナンシーが子供たちに向けて、優しい言葉で、しかし深みを持って恋愛について語っています。その本を読んでぼくは衝撃を受けました。なぜなら、恋人たちが手を繋ぐ理由が分かったからです。ですから、今回の記事は恋人たちが手を繋ぐ理由についてです。少し長いですが、しばしお付き合いを。

 


「あなたが好きだ」
    なぜ好きな相手に愛を告白するのでしょうか、「あなたが好きだ」と言うのでしょうか。*1それを明らかにするために、まずはその言葉に込められた裏の意味を明らかにしましょう。ナンシーによると「あなたが好きだ」と誰かに言うとき、それはただ自分の愛を伝えるためだけの言葉ではなく、「その人に自分のことを好きになってくれるようお願い」*2するための言葉でもあります。つまり、「あなたが好きだ」は相手に愛を与えることを約束する言葉であると同時に、相手の愛を求める言葉でもあるのです。なぜなら、「愛においては、与えることと求めることははっきり区別することはできない」*3からです。「あなたが好きだ」はそのような二重性を持った言葉なのです。


    では、相手に与えることを約束するその愛はどのように自分のうちに生じるのでしょうか(というのも自分のうちにないものを相手に与えることはできないからです)。まず、「愛は、こんな気持ちが自分の中にあったのか、と私自身に明かされるべきもの」*4であるとナンシーは言います。つまり、自分のうちに愛はあるけれども普段はそれに気が付いていないということです。それなら、どのようにしてそれに気が付くことができるのでしょうか。それは「相手の存在によって」*5です。その相手から相手も知らないうちに「何かが私のところにそっとやって来て私に触れ」*6ることによってなのです。そうして、愛は自分のうちで認識されます。しかし、正確に言うとそれは愛ではなく、自分が「他者を愛することができる可能性」*7です。なぜなら、「すべての愛は、誰かに『あなたを愛している』と言うそのことによって生じる」*8からです。つまり、「あなたが好きだ」と言うことで、自分のうちにあると気付いた「可能性」が愛を生み出すのです。そうして、世界に新しい愛が生まれます。これが「あなたが好きだ」と言う理由のひとつ目です。つまり、愛を存在させるために人は愛を告白するのです。


    そして、相手の存在が相手も知らないうちに自分のうちにある「可能性」に気が付かせてくれたように、「あなたが好きだ」ということで相手のうちにある「可能性」に気が付かせようとします。それが「あなたが好きだ」と言う理由のふたつ目です。愛の告白によって相手のうちにある(将来的に愛を生み出す)「可能性」に触れ、相手にそれを気が付かせることができるのです(もちろん悲しいことにそれができない場合もありますが)。そして、もしも相手が「あなたが好きだ」と言ってくれれば愛が生じ、そうして生まれたふたつの愛は固く結びつくことでしょう。*9


    それならば実のところ、片想いをしている人はその相手に「あなたが好きだ」と言うべきなのではないでしょうか。というのも、たとえば片想いをしている人がいてその相手がその人を好きになってくれないのは、相手がその人のことに興味がなかったり嫌いであったりするからではなくて、もしかすると自分のうちにある「他者を愛することができる可能性」に気が付いていないだけであるかもしれないからです。その場合、相手に「あなたが好きだ」と言うことで相手が自分のうちにある「可能性」に気が付いてくれたら、状況は一気に好転するかもしれません(上でも書いた通り悲しい結果になることもあると思いますが)。


    そして、片想いをしている人が愛を告白するべき理由はもうひとつあります。

 


無修正のイメージ
    ナンシーによると、ある人を好きでいるとき「相手をいろんな部分に分けてしまうこともある。好きな人の長所とか特徴とか、そういう部分ばかりに目を向けている限り、その人のイメージを勝手に自分の中に作り上げてしまうようにな」*10ります。長所とか特徴というのは相手の一種の所有物であり、これを愛するということは、相手が存在しているということを愛するのではなく相手が所有しているものを愛するということになります。それは本当に愛するということではありません(その理由は後述します)。その作り上げられたイメージは、「やはり実際の本人からは離れてしまって、そうするとギャップとか葛藤とかが生じ」*11てきます。それを避ける方法のひとつは実際の相手と一定の距離を保つこと、つまり片想いのままでいることです。しかし、それはやはりイメージに恋しているに過ぎません。それはとても空虚な娯楽ではないでしょうか。


    ただ、「実際の誰かを愛しているときでさえ、その人のイメージのことも愛している」*12ということも確かです。しかし、実際の相手を愛するとき、愛そうとしているときには実際の「相手はイメージの方に向かい、イメージは実物へと返ってい」*13きます。そうして、その両方は互いに修正されていきます。片想いにはこの修正がありません。そのイメージはどんどん美化され、肥大化し、もしかすると屈折してしまうかもしれません。無修正のイメージからは愛を得られません。確かに、一種の娯楽としてそのイメージを楽しむことはできます。しかし、そこに愛はありません。それは相手が気が付かせてくれた自分のうちにある「可能性」が持つ愛を生み出す力を殺していることと同じです。だからこそ、片想いをしている人は愛を告白するべきなのです。


    ナンシーは人を愛するにはあることをする訓練が必要であるとも言います。そのあることとは「相手について自分が抱いている強烈なイメージと実際の相手とのあいだを行きつ戻りつすること」*14です。それはとても難しいことであるし、失敗することもあるでしょう(だからこそ訓練が必要なのですが)。となると、どうして愛にはそのようなリスクがあるのでしょうか。そして、愛の告白が受け入れられたとして、本当に相手を愛するということはどういうことなのでしょうか。

 


絶対、そして唯一
    ある人を本当に好きであるとき、「その人が外見にせよ内面にせよ何かを持ってるから好きなのではなく、ただその人に存在していてほしい」*15から好きなのだとナンシーは言います。たとえば、相手が金持ちだからとか相手の顔が好みだから好き、というのは本当に愛していることにはなりません。それは所有物を愛しているに過ぎないからです。では、なぜ所有物を理由にして人を愛することは本当に愛するということではないのでしょうか。それは愛が数量化できない、すなわち「あらゆる尺度とか比較から切り離されている」*16絶対的なものであるからです。反対に、所有物は数量化できます。たとえば、AさんはBさんよりも金持ちだとかCさんはDさんよりもかわいいだとかです。したがって、数量化できる所有物を理由にした愛は数量化できるので本当の愛ではないのです。加えて、愛はひとりではなくふたりにおけるものです。何かの「量を示したり、比較をしたりすることができるときは、それは私一人の問題、つまり自分の側の好みを言っている」*17にすぎないのであり、ふたりの関係を他と比較するとき、実はそこには自分ひとりしかいないのです。そうではなくて、本当の愛にはふたりが必要で、その関係は絶対的、唯一的なものです。互いが互いを世界から選び取ることによって、ふたりは唯一の関係を結び合い、他のすべてのものから切り離されるのです。


    ところで、愛はなぜ数量化不可能な絶対的なものなのでしょうか。それは、本当に愛するということは「その人に存在していてほしい」と願うことであり、言ってしまえば、相手が存在しているということを愛する、ということであるからです(その理由は後述します)。相手がひとりの人間であることを考えると、その相手が「とても」存在しているだとか、「少し」存在しているだとか、「誰かよりも」存在していると言えないことは明らかです。このように、愛するということは数量化できないのです。そして、ナンシーは、どれぐらい愛しているかを気にしているときは実は「本当に愛し合っていないとか、ただのいい友達どうしでしかない」*18とまで言います。


    また、存在していることを愛するとはどういうことなのかというと、相手の「存在そのもの、あなたがここにいるということ自体に向かい合う」*19ことであり、そうすることで相手に、相手が存在しているということに「唯一の価値を認める」*20ことです。唯一の価値を与えると言ってもよいでしょう。「あなたはあなた唯一の存在する価値を持つんだよ」ということを相手に知らせること、それが本当に愛するということです。*21そして、それによって相手に与える価値は、またそうされることで相手から与えられる価値は「もう信じられないくらいの価値」、「法外な価値」*22なのです。そのような価値をやり取りするのですから、愛にリスクが生じることも仕方がないと言えるでしょう。


   では、その価値を与えるためにはどうしたらよいのでしょうか。ナンシーは、それには「カレス(愛撫)」*23しかあり得ないと言います。

 


手を繋ぐ理由
    フランス語で愛し合うふたりが呼び合うときに使う言葉「シェリ chéri」はラテン語で「高い」という意味の「carus」を語源に持ちます。ナンシーは同じ語源に由来する言葉としてフランス語で「愛撫」という意味の「カレス caresse」に注目します。ナンシーによると「愛撫というのは、いとしい相手、一番価値があると思える相手に対して」*24する動作、身ぶりであり、それによってその相手に「唯一の価値を認める」ものであります。言い換えれば、相手の身体に触れることでその相手がそこに存在しているということに価値を与える、それが愛撫です。そして、愛撫は、愛において大切なのは「ただ相手がそこに存在してくれること」*25以外のなにものでもないということを教えてくれます。もちろん、愛撫といっても性行為に直結するわけではありません。たとえば、手を繋ぐということも愛撫だと言えるでしょう。そうすると、手を繋ぐということはもっとも手軽な愛撫なのかもしれません。なるほど、だから恋人たちは手を繋いで歩くのですね。*26

 


おわりに
    Amazonのオススメ欄に出てきたので、なんとなく買ってなんとなく読み始めたら、恋愛について昔から疑問に思っていたことがドンドンと解きほぐされていき、恋愛観だけでなく人生観までも変わってしまったような気分です。すごいな、Amazonジャン=リュック・ナンシー


追伸
    本書に背中を押されて告白したらふられました。

 

 

恋愛について (小さな講演会)

恋愛について (小さな講演会)

 

 

 

*1:本記事では「好きである」と「愛している」は同じものを示す異なった表現として扱います。なぜなら、フランス語においてはどちらも「aimer」という語で表されるからです。なぜ日本語にはふたつの異なった表現があるのかについては考察が深められるべきでしょう。

*2:ジャン=リュック・ナンシー『恋愛について』(新評論、2009)p.52。以下同書

*3:p.53

*4:p.59

*5:p.59

*6:p.59

*7:p.54

*8:p.10

*9:ここには前に出てきた二重性が関わってきます。というのも実のところ、相手に愛を求めることによって相手のうちにある愛に気が付かせようとしているからです。

*10:p.74

*11:p.74

*12:p.75

*13:p.75

*14:p.39

*15:p.32

*16:p.23

*17:p.24

*18:p.25

*19:p.37

*20:p.35

*21:これはあくまでもナンシーの考えであり、本当にそれが「本当に」愛するということなのかについては考察の余地があるでしょう。

*22:ともにp.40

*23:p.37

*24:p.35

*25:p.38

*26:手を繋ぐ理由は分かったけれども、手を繋ぐ相手がいないという事実には目をつぶりましょう。