栗原康・白石嘉治『文明の恐怖に直面したら読む本』読んだこと考えたこと

    本書は政治学者でアナキストの栗原康と仏文学者でアナキストの白石嘉治との対談本である。栗原康は伊藤野枝一遍上人大杉栄の伝記で知られ、白石嘉治は以前から大学無償化やベーシックインカムの導入を主張している人物である。そんなふたりの対談本は、栗原康による「はじめに」からしてぶっ飛んでいる。そこでは、本書の編集者が学生時代に友人が競馬で一発あてた金で安倍晋三美しい国へ』を大量に買いそれにみんなでションベンをひっかけたエピソードが紹介されている。ぶっ飛んでいる。

そして、対談は栗原康が仏教関連、アナキズム関連の理論や実例を提示し、白石嘉治も実例を出しつつドゥルーズやバルト、ベンヤミン、ブランキ、シュティルナー等を援用して抽象的に話をまとめる形で基本的に進んでいく。

 


    まず前提として、文明とは何らかの権力による支配である、ということが白石によって共有される。古代はカミによる支配、近代はヒトによる支配、現代はモノによる支配であり、問題は、この支配すなわち文明からいかに逃れるかということである。そこで登場するのが「表象」と「徴候」の対置である。表象とは、ひとつのものにひとつの意味を割りふる仕組み・しるしであり、表象により国家は権力を手に入れる。対して、徴候とは、ひとつのものに複数の意味を重ねる(見出す)仕組み・しるしであり、これは民衆の力能であるとされる。レヴィ=ストロースのいう「ブリコラージュ」もこの徴候にもとづく力能によるものであるという。

また表象は、時間は過去・現在・未来というふうに線状に連なっていくというように知覚を限定してしまうものであり(ドゥルーズのいう運動イメージっぽい)、それに対する徴候は、時間を圧縮し重ね合わせたものであるとされる(同じく時間イメージっぽい)。 表象のもとでは、過去という存在を現在において認識し(ひとつの)未来を予測するということにのみ知覚が使われ、不在に対してのみ想像が使われる。一方、徴候はひとつに確定しない過去を現在の地点において表し、それはひとつに確定しない未来も表している。そこでは知覚と想像が重なっており、存在と不在の重ね合わせが起こっている。

白石は、表象によって我々から切り捨てられ、支配者に支配(例えば神話によるカミの支配)の根拠として用いられる想像を取り返すことが支配から逃れるために必要なことだと考えている。では、どうしたら想像を取り返せるのか。それは徴候を読み取る生き方をすることであり、そのための場として大学があげられる。

 


    ここで重要になるのは、大学が中世に生まれたものであるということだ。白石によると、中世とは文明の支配者が交代するタイミングで文明によって隠されていた自然が表に出てくる時である。つまり、大きく考えれば、文明の支配者がカミからヒトに変わる時、ヒトからモノに変わる時が中世であり、大学は前者のタイミングで生まれたものである。中世において文明は後退し、自然があらわになるので自然に依拠したふるまい=徴候を知覚する生き方が世の中に出てくる。前者のタイミングにおいて、それが日本では鎌倉仏教であり、西洋では大学であったという。

ここで白石は、徴候を読み取ることを「遊び」と言い換えている。*1大学は「遊び」の場であるといい、さらには大学というものを場ではなくひとつの行為、大学=「遊び」とし、大学は行われるべきものであるとさえいう。これは、文明は高い建物を建てるために存在するという白石の論*2にもとづいた意見であろう。大切なのは建物ではないのだ。また、現在の日本の大学は中世的な「大学」と社会に奉仕するための知識を身につけるためのものである文明的な「学校」とが重なりあっているものだとされる。*3

いま、大学は「学校」としての役割を大きくしているような気がしてならない。あらためて「大学」を取り戻すためには、建物としての大学に背を向け、大学=「遊び」を実践していかなければならないだろう。某大学のシンボルである時計台なんて爆破されるべきなのだ。

 


    もうひとつ、「徴候=『遊び』にもとづく生」以外の文明からの逃れ方についても触れておきたい。それは栗原の「コミュニケーション、クソ食らえ!」*4という言葉がすべてを表しているようにコミュニケーションを否定することである。ここでいうコミュニケーションとは、公共性にのっとって自分を抑圧し他者をモデルとして参照することである。常にみずからの外部にモデルを置くことで自己検閲を行い、他者と円滑なコミュニケーションを取ることを強要するのが現代社会=国家=文明であるのだ。

栗原と白石はランダウアーの理論にもとづいて、コミュニケーションを否定する、その理論とは、文明による支配とは別のところに自然によるユートピアがあるのではなく、両者は同じ場所にありいまは文明によってユートピアが隠されているというものだ。そして、ユートピアは文明の裂け目からちょっと顔を出したり大きく現れたりすることがある。そのときにそれに感応する力を「精神」と呼ぶ。その「精神」はみずからをモデルにすることでユートピアを掴み取る。そうして、革命は行われるのだ*5ユートピアを掴み取るというのはおそらく上に書いた徴候を知覚するということと同じだろう)。これをもとにして白石は、自分を抑圧すること=他者をモデルとして参照することを強要するコミュニケーションを批判している。

他者をモデルにするというのは、たとえば道徳に照らし合わせて行動するなどというものであろう。目指すべきはみずからをモデルとすること、みずからの判断基準を持つこと、他人の目を気にしないこと、みずからの徴候の知覚を大切にすることではないだろうか。

 


    最後に本書を読んで、アナキストに対する意識が変わったということについて書きたい。本書を読む前は、アナキストに対して、やたらと叶えられない理想を掲げ「革命だ」と叫び物理的に乱暴な方法でそれを達成しようとあがく人たちという印象を持っていた。しかし、本書を読み進め、ある種の結論としての態度が提示されたとき、別の意識が生まれた。

栗原と白石は対談を通してひとつの態度にたどり着く。それはレヴィ=ストロースに由来する「ネコと目配せする」*6という一言で表される。

白石はバルトの「0度のエクリチュール」をもじり「表象の0度」*7という概念を提示する。*80は1と対置される。1は起源である。たとえばどこかにユートピアがあると考えそれを求めたり、人類が文明に支配される前に帰ろうというのは1に向かっていく行為である。しかし、1は拠りどころでもある。それを求めるということは、自分以外のモデルを求めることであり、それは新たな支配へとつながる。対して、0は「離脱」*9の果てにあるものとされる。表象で固められた文明世界の中で徴候を知覚する。徴候の知覚を広げていく。そうして表象の世界から離脱し、「表象の0度」へとおりていく。徴候を知覚するというのは難しいことではない。それは「ネコと目配せする」ぐらいのことでいいのだ。

文明は表象によって力を持つ。つまり、表象を根絶やしにしなければ文明は潰せない。それは難しい。だから、徴候の知覚を広げることで表象から離脱していく。それは「革命的であることかもしれない」*10と白石はいう。そういう生き方が「アナーキーである」*11ともいう。

正直、このような優しい革命があるのかと驚いた。アナキストと革命が一気に身近になったような気がした。

 


    最後に白石の言葉を引用する。今回の文章ではふたりが小説について語った部分に触れることができなかったが、小説=ロマンも徴候の知覚を広げるのに大切なものだとされている。


天皇憲法なしでも人生はやっていけるけれど、ロマンとシネマなしではやっていけない。それがアナーキーということです。」*12

 


追伸
    本書では上に書いた以上にたくさんのこと(島原の乱、鎌倉仏教、縄文、プルーストなどなど)に触れられていますし、もっと多くの考えが提示されています。ぜひ、買って読んでみてください。アナキズムとか現代思想とか全然知らないって人はとくに。逆に、そういうのに詳しい人が読んだらどういう感想を持つのかが気になります。

    「やりがい搾取」についての話も出てきて、偽の能動性にもとづいた搾取とかそもそも能動性ってなんだろうということを最近考えています。

 

 

文明の恐怖に直面したら読む本 (ele-king books)

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何ものにも縛られないための政治学 権力の脱構成

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不純なる教養

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*1:栗原康・白石嘉治『文明の恐怖に直面したら読む本』p.110。以下同書

*2:p.63

*3:p.112

*4:p.175

*5:p.173

*6:p.184

*7:p.189

*8:ここには、カミュが死の予感の中で開きなおって『異邦人』を書き新しい文体を生み出したこと、レヴィ=ストロースが失意の中で開きなおって『悲しき熱帯』を書き現代思想が始まったことからの発想が含まれている。『悲しき熱帯』から現代思想が始まったという白石の論は次の論文に詳しく書いてあります。学術情報リポジトリ

*9:p.185

*10:p.189

*11:p.190

*12:p.191