大前粟生『回転草』読んだこと考えたこと

 突然ですが、あなたは小説を読む際にその場面その状況が視覚的に頭の中に浮かぶタイプですか?ぼくは残念ながらそのような想像力には乏しいのですが、そのような想像力が豊かな方にぜひ読んでもらいたい本があります。大前粟生『回転草』(書肆侃侃房)です。これは10の短編小説からなる短編集ですが、ほとんどの短編が読者の視覚的想像力に挑んできます。挑んでくるというか、破壊しにきます。ぼくは乏しい想像力のおかげで大丈夫でしたが、おそらく豊かな想像力の持ち主は気が狂ってしまうのではないでしょうか。自分の乏しい想像力に感謝するとともに少し残念な気持ちもあります。
 では、どのようにしてこの短編集は読者の想像力を破壊しにくるのでしょうか。まず例えば、表題作「回転草」の主役は西部劇でよく転がっている(と思われている)タンブルウィード、つまり回転草という植物です(と思われている、と書いたのは、先日恵文社一乗寺店で行われたトークイベントで大前粟生が実は西部劇を観たことがないということが発覚したからです)。そしてこの短編の中ではそのタンブルウィードが人間の言葉を喋ります。またその次に収録されている「破壊神」では回転草たちがアイドル活動をしています。大丈夫ですか、ついてこられていますか?これらはまだ設定の妙と言えるところで、視覚的想像力は無事だと思います。次に、視覚的に想像しにくいものたちの例を出してみます。まずは「生きものアレルギー」に出てくるおとうさんです。彼は生きものアレルギーであり、症状が悪化しないように頭にゼリーの立方体を被っています。そのゼリーはもとは透明で水色なのですが、おとうさんは空気穴から手を入れて顔にできたいぼを潰してしまうのでいぼから血が出てゼリーが赤黒くなり魚の煮凝りのようになってしまっています。頭が魚の煮凝りに包まれている人間の姿をあなたは想像できますか?たしかに想像はできるかもしれません。しかし、その奇妙さ、言ってしまえばグロテスクさは確実に読者の脳みそを攻撃してきます。ネタバレになるので詳しくは書けませんが、物語の中盤でさらにグロテスクな絵面をぶん投げてきます。ぼくはその辺りで心の健康のために想像力を停止させました。この例は、想像することは可能ですが心が耐えられないために想像力が戦略的撤退をするようなものです。次の例は、そもそも想像力が戦場に出ることすら許してくれません。「わたしたちがチャンピオンだったころ」では、1年に1度、「だれが一番カレーをおいしくたべることができるのか」を決める大会が開かれます。まあそんな大会も世界のどこかでは開かれているかもしれませんし、開こうと思えば開けると思いますので、ここでは深く言及しないでおきましょう。問題は、その大会の会場が前回のチャンピオンの家であり、参加者はその町に住む全員、数にして16077人であるという点です。はい、想像してみてください、普通の一軒家に16077人が入ってみんながカレーを食べている姿を。無理。ぼくには無理です。
 これらの短編は小説の可能性のように思われます。風景があってそれを文字で模写するのではなく、小説というオリジナルなものしか存在させない。言ってしまえば、小説にしかできないことをやってのけているのです。視覚的想像力を刺激するための小説は、写真や映画などの登場により現在、魅力を失ってしまっているように感じます。そのような中で、視覚的なものに還元できない物語を提供することが今の小説に求められていると思います。それは大きくふたつに分けられます。ひとつは、綿密な分析をもとにした心理小説のような非視覚小説、もうひとつは、まさに上に例に出したような反視覚小説です。そうであるので、『回転草』は今後の小説界を担っていくであろう大前粟生の立ち位置を明確に示した短編集だとぼくは思うのです。

追伸
 『回転草』の反視覚的な面だけに注目してレビューしましたが、この短編集を語る上で現実に対する「絶望」というキーワードは外せないと思います。そうであるので、現実に違和感を持っていて生きづらさを感じている人にはぜひ読んでもらいたいです。

 

 

回転草

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