禁煙日記 16日目

 

昨日あたりから心臓がバクバクして手足の震えが止まらないのだが、それは明日に大学院入試の一次試験があるからで、さらには落ちる可能性が非常に高いからであり、こういうときには煙草を吸って落ち着きたいのだが、禁煙中であるため吸うわけにもいかないし、そもそも手元に煙草がないので吸えない、とはいってもコンビニまで買いにいけば煙草は手に入るのだが、何かをし・され「たい」という欲求と何かをし・され「たくない」という欲求があるとすれば、ぼくは「たくない」のほうが昔から強く、「煙草を吸いたい」と「寒いなかコンビニまで行きたくない」とをぶつけると後者が勝つので、煙草を吸わずに済んでいるのわけなのだが、それは最近は院試勉強のために部屋に引きこもっているからであり、「煙草を吸いたい」という欲求は優先的に叶えられないだけであり消えるわけではないので、外に出るようになればもしかすると買ってしまうかもしれないのだが、やっぱり「怒られたくない」という欲求が一番強いので、最後まで禁煙を続けられそうであり、このような苦痛に耐えているぼくに、大学院合格というご褒美をくださってもよろしいのではないですか神様と思うのだが、それはヤンキーが更生してえらいというのと同じであるので、少し心にモヤモヤとしたものが湧いてくるが、そんなことはどうでもよく、とりあえず受かりたい。

禁煙日記 15日目

 

今日はパス!たぶん明日も。昨日あんな宣言をしたくせにね。というのも「禁煙日記」を書くのに毎日それなりの時間を費やしているのだが、院試が明後日に迫り、記事を書いている暇がないからである。しかしやっぱり明日は明日で院試に対する諦めがついて何か書くかもしれないな。あと、記事のネタ募集中です。あと2週間ほど続けなければならないのにもうネタがないので。コメント欄に書くか、あるいはこの記事のURLと一緒にツイートしていただければと思う。ちなみに喫煙欲はまったく減衰していないし、禁煙による健康効果も実感できていない。ただただ禁煙が辛い。以上。

禁煙日記 14日目

 

昨日の記事に「このふたり結局付き合ったんだ」というような反応をしている方を見かけたが、そうです付き合ったんです。その過程をエッセイ風に書いたものと、短歌と感想のやり取りを含めた本を作ったんです。紙版はありがたいことに売り切れましたが、PDF版は絶賛発売中なのでぜひ買って読んでみてください。紙版の再販はまったく予定にありませんが、映画化が決定するなりなんなりしたら再販すると思います。

 

今日の分の記事を書いていたら、また惚気話みたいになってしまったので削除して書き直しはじめた。以前までは惚気話といっても奇怪さの方が勝っていたので惚気感はあまりなかったが、最近は惚気話の惚気感が段々と増してきているような気がしており、控えるようにしている。しかしそれでも人は惚気てしまうのである(突然大きくなる主語)。

 

そもそも、なぜ惚気るのか。惚気話を聞かされる方からしてみれば、それはただの自慢であるのかもしれない。たしかに話す側にもそのような気持ちはあるだろう。しかしぼくが思うに、惚気て「しまう」理由は他にあるのだ。それは、「耐えられない」からだ。

 

恋人との交流のなかで心が揺さぶられるということは多々あると思うが、その感情の隆起の程度が大きくなると自分ひとりでは抱えきれなくなり、悶え死にそうになるのだ。これはオタクの言う「尊すぎて死ぬ」と近似した心性を持つと思われる。そして、その心的ショックを和らげるために、人に惚気るのだ。つまりぼくに惚気るなと言うことは、ぼくに死ねと言うことと同義なのである。だからこそ、これからも煙草と無理矢理に絡めて惚気話をしていこうと思うのでよろしく。

禁煙日記 13日目

 

煙草。円柱。恵方巻き。節分。節分といえば、昨年の節分は恋人になる前の恋人と一緒に恵方巻きを作って食べた。ぼくの実家で、ぼくの母親と一緒に。

 

ぼくは前頭葉が未発達であるせいで衝動に身を任せてしまうことが多々あり、恋人になる前の恋人をなぜ実家に招いたのかは今になっては分からないが、おそらく恋人になる前の恋人が節分に恵方巻きを食べたことがないと言ったので、「じゃあうちに食べに来たら?」と誘ったのだったと思う。以前からぼくの母親の料理が美味いという話をしていたこともあり、恋人になる前の恋人はこの誘いを非常に喜んでいるように見えた。

 

誘ったからには母親に許可を取らなければならない。ぼくは母親にこう言った。

「以前から話していたKさんが、節分に恵方巻きを食べたことがないみたいだから、うちで一緒に食べませんか?と誘ったんだけど大丈夫?」

母親は変な顔をしたあとに、

「別にええけど。えー、なんなんあんたら。よく一緒に出かけてるし、付き合っとるん?」

と言った。ぼくは答えた。

「付き合ってないよ」

「あらそう。でもあんたはKさんのことが好きなん?」

「好きだよ。これまでに2回告白したけど2回ともふられたよ。今度ふたりきりで4泊5日の台湾旅行するよ」

「は?」

母親は鋭く声を上げるとそのあとは口をただパクパクさせていた。

 

そして節分当日。の出来事は前に短歌連作にしたので割愛。

これが作られたのは2回ふられたあとなのかと思いながら読み返すと、我ながらおもしろい。

 

ちなみに恋人は節分のことを頑に「おに退治の日」と呼称する。節分に恵方巻きを食べたことはないが、豆まきはしていたらしい。ある年、鬼の役をやってみたくなり父親に代わって実際にやってみたところ、鬼が不憫に思えて悲しくなってしまったためにそれ以降は豆まきもしなくなったそうだ。

禁煙日記 12日目

 

バーガーキング秋葉原昭和通り店がマクドナルド秋葉原昭和通り店の閉店日に掲げた垂れ幕の文言を縦読みするとマクドナルドを煽る文になっていたということが、つい最近話題になっていたと思う。それに対して賛否両論があるようだが、企業同士の煽り合いという欧米ではよく見られる事象が日本人には馴染み深くなかったということだろう。

 

その垂れ幕が掲げられた日のちょうど1週間前である1月24日金曜日のNHKラジオの「まいにちフランス語」という番組のコラムの内容は、欧米のユーモアについてであった。そこで言われていたことは、欧米人同士はユーモアを互いに交わし合う、とりわけ互いをからかい合うが、そのような種類のユーモアはあまり日本では見られない、ということであった。

 

日本と欧米でユーモア感覚が違うということを踏まえると、バーガーキングの行いは特に咎められるようなことではないと思われるが、そのような行為に不慣れな人間が多い日本でそれを行うことが果たして正しかったのかは、道徳的な面よりもマーケティング的な面で振り返ってみるべきだろう。

 

さて、なぜこのような煙草と無関係な話を真面目にしたかというと、その真面目な話を序詞のようにして、「ユーモア」という言葉を導き出したかったからである。では、ついに本題であるが、今日はぼくの好きなフランス的ユーモアを紹介したい。それは白水社から刊行されている『コレクション・フランス語③文法』のCD付き改訂版の108ページに載っている石原昭男さんによる挿絵である。まあ日本人の手によるものだから「フランス的」かどうかは知らないが(この石原昭男さん、有名そうなのにGoogleで検索しても詳細がよく分からない。どなたかご存知の方がいらっしゃれば教えてください)。

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いや〜良い。

 

『コレクション・フランス語③文法』は、ぼくが「フランス語が分からな〜い」と嘆いているということを恋人が恋人の父親に話したら「コレクションの③をひたすらやれ!」と言ってたよと言われたので早速買って取り組んでみたところ、一気にフランス語が(それまでに比べて)できるようになったのでオススメする。ただし初級を終えていないと少し置いてけぼりを食らってしまうかもしれないので気を付けて。ちなみに、恋人の父親はぼくを娘の恋人だとは認めていないらしい。

禁煙日記 11日目

 

煙草を吸いたくなるたびに口角を横に引っ張っていたらずっと微笑んでるような顔になった。心的に辛いのだが、それにも関わらず笑いが表れる。『ジョーカー』を思い出す。以前コンビニの前で煙草を吸っていたら窓際に陳列された雑誌の裏表紙に『ジョーカー』の円盤発売の広告が載っていたのだが、そのキャッチコピーが確か「極上のエンターテインメント」だったのでむせてしまったことがある。そうかそうかきみにとっては「エンターテインメント」なのか。ちなみに「エンターテインメント」を大辞林で調べると「人を楽しませるもの。楽しむためのもの。娯楽」と載っていた。なるほど。

 

『ジョーカー』は、喫煙シーンの喫煙勧誘度が非常に高い映画として有名だが(?)、数ある喫煙シーンのなかでいちばん印象に残っているものは、自分の通う公立の診療所が閉鎖すると聞かされたときにアーサーの煙草から灰が落ちるショットである。煙草がゴッサムシティあるいは資本主義社会であって、それは自らを燃やして生きている。そうして生まれた灰=弱者は社会の負担になると切り落とされる。ということがあのワンショットだけで象徴的にズバッと表されていると思う。

 

というような話などを「しどけ梨太郎」というFilmarksのアカウントでしている。友人が陰で「観ている映画の趣味は良い。感想コメントは良くない」と言っていたそうだ(あれ? 直接言われた気もする)がまったくその通りだと思うので、ぼくの感想は気にせずに、単なる作品リストとして覗いてみてはいかがだろうか。