補遺1:ミシェル・ウエルベック「(C'est comme une veine qui court sous la peau)」訳と解釈

この記事は、「カモガワGブックス vol.1 非英語圏文学特集」に西村トルソー名義で寄稿した「恋愛資本主義社会のミシェル・ウエルベックーー革命、闘争、中断/静止」の補遺です。この記事は単体で完結していますが、本誌と合わせてお読みいただくとさらにおもしろいと思います。

【告知】レビュー誌『カモガワGブックス vol.1 非英語圏文学特集』 - 機械仕掛けの鯨が

本誌は、C96日曜西こ30bの京大SF研ブースや福岡のajiroさん(http://www.kankanbou.com/ajirobooks/)で購入できるほか、booth(https://hanfpen.booth.pm/items/1476651)にて販売される予定です。

 

 

 

Poesie: avec Configuration du dernier rivage

Poesie: avec Configuration du dernier rivage

 

 

(C'est comme une veine qui court sous la peau)

Michel Houellebecq

 

C’est comme une veine qui court sous la peau, et que l’aiguille cherche à atteindre,

C’est comme un incendie si beau qu’on n’a pas envie de l’éteindre,

La peau est endurcie, par endroits presque bleue, et pourtant c’est un bain de fraîcheur au moment où pénètre l’aiguille,

Nous marchons dans la nuit et nos mains tremblent un peu, pourtant nos doigts se cherchent et pourtant nos yeux brillent.

 

C’est le matin dans la cuisine et les choses sont à leur place habituelle,

Par la fenêtre on voit les ruines et dans l’évier traîne une vague vaisselle,

Cependant tout est différent, la nouveauté de la situation est proprement incommensurable,

Hier en milieu de soirée tu le sais nous avons basculé dans le domaine de l’inéluctable.

 

Au moment où tes doigts tendres petites bêtes ont accroché les miens et ont commencé à les presser doucement

J’ai su qu’il importait très peu que je sois à tel moment ou à tel autre ton amant

J’ai vu quelque chose se former, qui ne pouvait être compris dans les catégories ordinaires,

Après certaines révolutions biologiques il y a vraiment de nouveaux cieux, il y a vraiment une nouvelle Terre.

 

Il ne s’est à peu près rien passé et pourtant il nous est impossible de nous délivrer du vertige

Quelque chose s’est mis en mouvement, des puissances avec lesquelles il n’est pas question qu’on transige,

Comme celles de l’opium ou du Christ, les victimes de l’amour sont d’abord des victimes bienheureuses

Et la vie qui circule en nous ce matin vient d’être augmentée dans des proportions prodigieuses.

 

C’est pourtant la même lumière, dans le matin, qui s’installe et qui augmente

Mais le monde perçu à deux a une signification entièrement différente;

Je ne sais plus vraiment si nous sommes dans l’amour ou dans l’action révolutionnaire,

Après que nous en avons parlé tous les deux, tu as acheté une biographie de Maximilien Robespierre.

 

Je sais que la résignation vient de partir avec la facilité d’une peau morte,

Je sais que son départ me remplit d’une joie incroyablement forte

Je sais que vient de s’ouvrir un pan d’histoire absolument inédit

Aujourd’hui et pour un temps indéterminé nous pénétrons dans un autre monde, et je sais que, dans cet autre monde, tout pourra être reconstruit.

Le sens du combat, 1996

 

 

 

(それは肌の下を走っていて……)

ミシェル・ウエルベック

 

それは肌の下を走っていて針が達しようと努めている静脈のようであり、

誰も消したがらないほど美しい火事のようである、

肌は凝り固まっていて、ところどころはほとんど青色である、しかしながら、針が入り込む瞬間に新しさが溢れる、

ぼくたちは夜を歩いていて、その手は少し震えている、しかし、その指は求め合い、その眼は輝いている。

 

台所は朝であり、諸々はいつも通りの場所にある、

窓の向こうに廃墟が見え、流しに空の食器が散らばっている、

それでも、あらゆるものが異なっている、立場の新しさはまともにははかり知れない、

昨晩のただなか、きみの知っての通り、ぼくたちは抗い難いものの領域に移行した。

 

きみの優しく小さい愚かな指がぼくの指を捕まえ、それらを優しく押し始めたとき、

ぼくはそのような瞬間にはいつでも、きみの愛人であるということがほとんど重要でないと知り

何かが形作られるのを見た、それは今まで通りの分類では理解できなかった、

ある生物学的な革命のたびに、新しい天が、新しい地球が真に存在している。

 

ほとんど何も起こらなかった、それでもぼくたちはめまいに襲われる

何かが動き始めた、それは誰しもが妥協するしかない力だ、

阿片の、あるいはキリストのそれらのように、愛の犠牲者はまずもって至福な犠牲者だ

そして、ぼくたちのなかを巡る生は、今朝、途方もなく増やされたところだ。

 

しかしながら、その朝、居着いて増大するのは、同じ光だ

しかし、ふたりで知覚された世界は、まったく異なる意味を持つ、

ぼくにはもはや、ぼくたちが愛のなかにいるのか、あるいは革命的な行動のなかにいるのか、本当に分からない、

ぼくたちがふたりでそのことについて話した後、きみはマクシミリアン・ロベスピエールの伝記を買った。

 

諦めが死んだ皮膚から難なく出てきたところだと、ぼくは知っている、

その出発によって自分が信じられないくらい強い喜びで満たされると、ぼくは知っている、

歴史の完全に斬新な一面が始まったところだと、ぼくは知っている

今日から無期限のあいだ、ぼくたちは別世界に入り込もう、そして、この別世界では、すべてが作り直され得るだろうということを、ぼくは知っている。

 

 

 

解釈

 全体的なテーマは愛と革命である。ウエルベックは、この詩において、歴史上の諸革命を個人の外側の世界を変えようとして失敗したものだと捉えており、それに代わるものとして、個人の内側の世界を変えるものとしての愛の革命を提示する。この詩は革命の失敗の繰り返しから愛の革命によって脱却を試みるさまを描く。

 

 第1連に出てくるce「それ」のはじめふたつは、肌の下にあり、近付くことを欲しているが近付くためには身を危険にさらさなければいけないものであり、達することに成功すると、un bain de fraîcheur「新しさが溢れる」ものであることから、第6連に出てくる、un autre monde「別世界」であると考えられる。un autre mondeが個人の内側に現れるものであることには、あとで触れる。

 この詩において、la peau「肌」は個人の外側と内側を隔てる境界線かつ外部を知覚するための器官として用いられている。それが凝り固まっているということは、知覚能力の低下を示している。ところどころ青いのは何度も針を刺したせいであろう。ここでのl’aiguille「針」は薬物摂取のためのものであると考えられるが、世界を変えるもの(すなわち、革命)の象徴として機能している。つまり、世界を変えようと多くの革命が行われたせいで、身体(フランスのメタファー?)が疲弊している。しかし、針が入り込む瞬間、つまり革命勃発時には、そのような過去は忘れ去られて、革命により生まれたun autre mondeをfraîcheurが溢れるようなものとして感じてしまう。そして、この詩においても、また何らかの革命が発生する。また、「針が入り込む」は性的なメタファーでもあると考えられ、今回の革命の発生要因は、je「ぼく」とtu「きみ」の性的交渉であると思われる。

 4行目で、手が震えているのはそのようにして生まれた新たな状況に緊張しているからだ。しかし、知覚のための器官である「指」と「眼」は活性化している。ここで外側の知覚が可能になっているが、それらは互いを知覚することだけに使われている。

 

 第1連から一夜明けて第2連が始まる。最初の2行で、外側は変わりないということが示される。そして、cependant「しかしながら」以降は変わったものについて記述される(ちなみに、この詩において、逆接は、記述の対象が、変わるものから変わらないもの、またその逆に変わることを示している)。外側は実際には変わっていないが、jeにとってはすべてが今までと異なっている。それは、jeとtuのあいだに愛が発生し、それにより関係性が変わったために、jeのla situation「立場/状況」が新しくなったからだ。その変化は昨晩発生したものであり、jeだけでなくふたり一緒でのl’inéluctable「抗い難いもの」=「愛」の領域への移行によるものである。

 

 第3連は第1連の4行目と同じく、知覚の活性化と限定を示している。第5連でふたりは一体化するが、一体化のためには互いが知覚されないといけないということが、これらのことから読み取れる。またその活性化の要因は第一連の「針が入り込む」ことである。

 2行目と3行目では、世界を変える未知のquelque chose「何か」、つまり愛が形作られる。それは、正規の関係ではない愛人関係のなかで生まれたが、jeにとってそんなことはどうでもいいことであった。

 ここで注目しておきたいのは、4行目でvraiment「本当に」といちいち念を押していることだ。まるで奇妙なものを見た子供の主張のように、本当であることを執拗に強調する。このことから、新しいcieux「天」やterre「地」があるというのはjeの思い込みであり本当にはないのではないのか、と考えられる。つまり、実際には外側は変わっていないが、内側が変わったjeにとっては変わったように見えているのだ。

 

 第4連。ほとんど何も起こらなかったということは、何かが起きたということであり、それは妥協せざるを得ないような力が動き始めたということである。その結果、ふたりはめまいにとらわれる。妥協せざるを得ない力というのは、愛のことであり、それはふたりそれぞれに生じるので、des puissancesと複数形である。めまいというのは、その愛の輝きによるものであり、盲目を生む。それは、ふたりそれぞれの知覚の消失を表しており、愛が生まれたのちには、外部が必要なくなることを示している。

 阿片は身体に害である。キリストは信者をみな罪人とする。しかし、両者はどちらも幸福を与える。それと同様に、愛は、犠牲は伴うが幸福を与えるものである。

 そして、ふたりの生命力(生きる意味?)は増大する。

 

 第5連、pourtant「しかしながら」により、話が外側に移る。今まで見たように内側に大きな変化が生じたにもかかわらず、朝の光は今までと変わらない。mais「しかし」により、話が内側に移る。外側の世界そのものに変化はないが、「ふたりで」知覚され内側で構成された世界は、今までとはまったく異なる意味を持っている。ここで、愛による一体化が起こっている。それぞれの知覚は消失したが、一体化したふたりの知覚が発生している。また、革命はひとりではなしえない。そして、一体化と世界を変えるものという特徴を持った愛と革命は、見分けがつかなくなる。愛は革命である。

 その後、tuがロベスピエールの伝記を買うのは、革命の失敗を知ることにより、愛の終わり方を知り、それを避けるためではないだろうか。ここで、ただ革命を失敗まで含めて繰り返していた人が、歴史に学び、歴史に参加する。つまり、革命をはじめとする過去の出来事を共時的にしか把握していなかった人が、通時的に把握するようになったということだ。

 

 第6連、皮膚は死んだ。これはふたりそれぞれの(あるいはje個人の)外側の知覚が完全に失われたということであり、外側を捨て去ったということだ。それがla résignation「諦め」である。今までは、外側の世界を変えることを諦めきれなかった。しかし、愛を知ったことにより、もう外側の世界を変える必要はなくなった。それは喜びを生む。

 un pan d'histoire absolument inédit「歴史の完全に斬新な一面」とは、一体化したふたりで歴史(ロベスピエール)を参照することによって生み出された、新たな歴史の筋道、つまり革命が失敗しないという未来である。その未来に向かう道のりが始まった。

 そして、今日から無期限の間、ふたりは別世界に入り込む。その別世界とはもちろん、第5連のle monde perçu à deux「ふたりで知覚された世界」のことである。これが、第1連に関するコメントの部分で、un autre mondeが内側に現れるものだと書いた理由だ。そして、そこではすべてが作り直され得るであろう。つまり、革命は成功する。ここで注目したいのは、第1連で出てきたpénétrerが再び使われている点だ。つまり、ふたりは針=革命となった。今までは、他の針を刺してきて失敗していたが、今回は自らが針となることで成功に至る。

 

 しかし、本当に成功するのだろうか。ふたりは一体化したはずであるのに、第六連ではjeが乱発される。また、第三連のvraimentと同様にje sais que「ぼくは知っている」にjeの思い込み、独りよがりを感じる。そして、ふたりが針になったことにも注目したい。この詩は、円環構造になっていると考えることができる。つまり、針となったふたりは、その後、その他の針と同じようなものになっていく。そして、革命を何回も実感するために、自らを刺し続けた結果、肌は凝り固まる。jeは別の女性との間に、新しい愛を見つけ出す。そのように考えると、révolutions「革命」が複数形であることにも納得がいく。つまり、愛という生物学的な革命は何度も起きるものであり、そのたびごとに新しいcieuxや新しいterreが存在するようにjeは感じるのだ。

 

 以上のことより、この詩は、愛ですら世界を変えることはできないという、ウエルベック的絶望が表現されたものであると考えられる。

 

分かりやすさに抗って|大前粟生『私と鰐と妹の部屋』読んだこと考えたこと

 大前粟生による奇妙奇天烈な53の短い物語がぼくの心に響くのは、それらの物語が「分からない」ことを受け止めてくれるからだと思う。

 

 奇妙奇天烈な物語というのは、絶景を見たときの感覚と同じものを読者に与えることが多い。表されるもの、目に見える外的な部分の衝撃的な印象に心を奪われる感覚だ。また、それは、見世物小屋で味わう感覚と似ている。それは、文字通り「好奇」の感覚だ。その感覚にとっては、奇妙であること、日常とかけ離れていること、が価値である。つまり、「分からない」ことに価値が置かれる。


 そのような感覚を喚起するものが奇妙奇天烈な物語であるとするならば、大前の掌編たちは、それらとは異なる軌を描く。たしかに、大前の描き出す物語には、妹の右目からビームが出たり、薔薇園に鰐がいたり、コンタクトレンズを食べたり、自分の名前を悪魔にしたり、無数のてるてる坊主をクッションにして昼寝したり、ジョン・トラボルタがエアコンの修理に来たり、妹をミイラにしたり、と外的な奇妙奇天烈さがある。しかし、そこには、「好奇」のまなざしの餌食となる奇妙奇天烈さ以外のものがある。そして、それこそが、大前粟生の魅力だ。それは、「分からない」ことを受け止めてくれる悲しい優しさだ。

 

 奇妙奇天烈さだけが求められた物語では、「分からない」ことはただの客寄せとして機能する。それは、「分かる」ことが当たり前としてあり、そのなかの特異点として「分からない」が設置されているということだ。「分かる」のなかに「分からない」がポツンとあるから奇妙奇天烈なのである。

 

 一方、大前の作品では、「分かる」ことは当たり前ではない。逆に、「分からない」が当たり前として提示される。提示される「分からない」には外的なものと内的なものとがある。大前は、外的な「分からない」を通じて、内的な「分からない」を描き出す。そして、それらを当たり前であるとすることで、「分からない」を受け止めてくれる。


 外的な「分からない」は、その行動が、状況が、「分からない」ということだ。対して、内的な「分からない」は、相手の考えていることが「分からない」、みんなの頭のなかが「分からない」ということだ。先に例を挙げたような外的な「分からない」を読者は感じる。それは奇妙奇天烈な世界によるものだ。他方、物語の登場人物たちは、内的な「分からない」を感じる。他者の行動の理由が、そのときの気持ちが、「分からない」。あるいは、他者が自分のことを「分からない」。これは日常的に存在するものだ。その外的な「分からない」と内的な「分からない」が重なり合うことで、奇妙奇天烈な世界に限らない「分からない」が描き出される。つまり、奇妙奇天烈な世界の描写を通じて、現実世界における他者理解の難しさが描き出されているのだ。


 最近は、分かりやすさを求める風潮が強い。その風潮は「分からない」ことへの恐怖、そして、それの排除、を生み出す。そのような状況で、自らのうちに「分からない」を持つ人たちは、それを隠して、抑圧して生きることを強いられている。それはとても苦しいことだと思う。大前粟生の物語は、奇妙奇天烈という道具を使って日常にありふれているはずの「分からない」を読者に示し、分からなくてもいいんだよ、それが当たり前なんだから、というふうに、そのような人たちを励ましてくれているような感じがする。


 「分からない」で溢れたこの物語たちは、「分からない」を受け止めてくれる。そこにはもちろん分かり合えない悲しさがあり、この1冊の本にはその悲しみが漂っている。しかし、それを否定しない物語たちは、とてもとても優しい。

 

 

私と鰐と妹の部屋

私と鰐と妹の部屋

 

 

 

これは大前粟生の前作について書いたものです。

 

 

回転草

回転草

 

 

 

なぜ初デートで映画を観にいくのか|アラン・バディウ『愛の世紀』読んだこと考えたこと

恋愛的に気になる人を初めてデート*1に誘うとき、映画を観にいくことが頻繁に選ばれているように感じます。しかし、なぜ映画なのでしょうか。せっかく初めてふたりきりで出かけるのに、大抵の場合2時間ほどは沈黙を強いられる映画を観るという行為がなぜ選ばれるのでしょうか。しかも、その映画が相手の好みに合致する保証などなく、最悪の場合、悪趣味な人間だと思われてしまう可能性もある博打的行為であるように思われます。*2

それならば、天気の良い日に、ふたりで河川敷でも散歩しながらおしゃべりを楽しんだほうが良いのではないでしょうか。ぼくは常々そのように思っていました。

しかし、実は、ふたりで映画を観るという行為は、恋愛において最も重要な点に関わるものであり、初デートで映画を観にいくことには十分な妥当性があったのです。

今回の記事では、フランスの哲学者であるアラン・バディウと同じくフランスのジャーナリストであるニコラ・トリュオングとが行った対談の書籍化である『愛の世紀』(市川崇訳、水声社、2012)に基づいて、なぜ初デートでは映画を観にいくべきなのかを明らかにしてみようと思います。

 

 

恋愛とは、差異に関する真理の生成過程である
初デート、というのはつまり、恋愛の過程におけるひとつの要素です。では、そもそも恋愛というのは、どういったものであるのでしょうか。

 

バディウは、「愛とは(…)ひとつの真理の構築である」*3と言います。そして、その真理とは、「一者ではなく二人であることから始めて経験される世界とは何か、同一性ではなく、差異を受け入れることから検討され、実践され、生きられる世界とは何か、という問題」*4についての真理だと言います。また、次のようにも言います。

 

わたしは、愛とは実際に、わたしが哲学上の専門用語を用いて「真理の生成過程」と名付けるもの、つまりあるタイプの真理がそのなかで構築されるような経験である、と主張します。この真理とは、まったく単純に「二であること」に関わる真理、いわゆる差異についての真理です。そしてわたしは、愛(わたしが「二者の情景」と呼ぶもの)とは、この経験であると考えます。*5


つまり、以上のことを踏まえると、恋愛とは、差異に関する真理の生成過程であるということになります。また、差異に関する真理の構築とは、「差異から出発する世界の構築」*6と言い換えることができます。

 

 

恋愛とは、出会いではなく融合でもない
バディウは、恋愛が一種の過程であることにこだわり、ロマン主義的な恋愛を批判します。


ロマン主義的恋愛において、愛は、「出会いというあるがままの世界に対して外在的な」*7瞬間において燃え尽きるものであるとバディウは指摘します。それは「融合的な出会い」*8であり、そこからは「二者の情景」ではなく、「一者の情景」*9しか生まれません。

 

二人の恋人たちが出会い、世界に対立する一者のヒロイズムのような何かが生じたのです。われわれは、ロマン主義的な神話の表象においては非常に頻繁に、この融合の地点が死へと導くのだ、と指摘できるでしょう。(…)それは、(…)例外的な出会いの瞬間に愛が使い果たされるからであり、それ以降、恋人たちに対して外在的なものにとどまる世界には、彼らはもはや戻れないからです。*10


二者は出会いにおいて愛を使い果たすことで融合することができますが、そうした一者は世界と対立し、元の世界に戻ることも、新しい世界を構築することもできません。そうして、死ぬしかなくなるのです。それは、恋愛が差異から始まる世界の構築の過程であることを知らず、それを出会いに集約することで二者の融合を求めたからです。


以上のことから分かるのは、恋愛とは決して出会いに集約されるものではなく、また、その目的は融合ではないということです。それは、恋愛が、「二者の情景」が世界を構築していく過程であるからです。

 

 

出会いという「出来事」
では、バディウにとって、恋愛における出会いとはどのようなものなのでしょうか。


バディウにとって、出会いは「世界の内部に生じる」*11ものです。それは、世界内の既存の法則では予測不可能であった「出来事」*12です。それは、「二であること」*13の出現という「出来事」であり、それゆえ偶然的です。ここでの「二であること」とは、「二人の個人のあいだの絶対的差異」のことであり、それは「無限の差異である以上、考えられる限り最も大きな差異のひとつ」*14です。


ところで、ここで使われる「出来事」という言葉にはバディウ独自の意味が込められています。

訳者の市川崇による訳注によると、バディウは「特定の状況内に含まれていなかった新たな局面」、つまり、「真理の生成を可能にする」(真理生成の始点となる)局面を「場」*15と呼び、「状況内の他の要素に与えるその影響が最大であるとき」*16、それを「出来事」と呼びます。

したがって、「出来事」は特定の状況内、つまり世界内に生じるものであり、そこから始まる恋愛も世界内に生じます。また、「場」「出来事」=出会いは、「新たな局面」であるゆえ、「諸事物を統べる直接的な法則の支配下*17には入りません。だから、出会いは偶然の装いをしているのです。そして、そこから始まる恋愛も当然その支配下に入りません。*18

さらに、「この『出来事』は、ひとつの現実世界の内部において、多様な形態を持つその諸帰結を通じてのみ現実性を獲得」*19します。つまり、「出来事」にとって重要なことは、その後どのようにそれが展開するかということなのです。


まとめると、ロマン主義的恋愛にとって出会いとは、一度きりの融合経験でしたが、バディウにとってそれは、その後の展開が重要であるような、絶対的差異の認識という「出来事」なのです。したがって、恋愛は「持続的な構築」、「執拗な冒険」であり、「出会いに還元されるわけではない」のです。そして、「真の愛とは、(…)諸々の障害を、長期にわたって厳粛な態度で打破するような愛のこと」*20なのです。

 

 

愛の告白による偶然の定着
さて、出会いがどのようなものかが分かったところで、次は、それがどのように過程の一部となるのかを見ていきましょう。


バディウは、出会いという「偶然は、あるとき定着されなければなりません。偶然はまさに、持続を開始しなければならない」*21と言います。そして、その定着は愛の告白によってなされます。

 

愛を告白するとは、出会い=出来事から真理の構築の開始へと移ることです。それは、始まりという形式のもとに出会いの偶然を定着させることです。*22


つまり、愛の告白によって出会いという偶然が恋愛の過程の始点として定着し、そこから真理の構築の持続が開始されるのです。また、愛の告白をバディウは重視します。

 

[愛の告白]は常に、偶然に過ぎなかったことから何か別のことを引き出そうと思う、という意図で発せられる言葉です。わたしはそこから、持続、執拗さ、約束、忠実さを引き出そうとするのです。*23


ここで引き出される忠実さは、恋愛のすべての元となる要素です。それは、「発端にある愛の告白」が、「出会いがその偶然性から解放されるように、持続を構築するという約束」*24であることを示します。

 

愛における忠実さとは、この長期にわたる偶然に対する勝利を意味しています。出会いの偶然性が日々、ひとつの世界の誕生を可能にする持続の創造によって打ち破られていくのです。*25


こうして、出会いは恋愛の過程に定着され、世界の構築という持続が始まるのです。そこにおいて、「出会いや告白、忠実さ」といった恋愛の諸要素によって、「二人の個人のあいだの絶対的差異」は「創造的な存在」*26に変えられます。

 

 

差異から世界を創造する主体
「創造的な存在」とは何でしょうか。それは恋愛の過程において真理を構築する主体のことです。つまり、先に出てきた「二者の情景」のことです。


今まで見てきた通り、恋愛とは出会いに還元されるものでも融合を目指すものでもなく、ひとつの構築です。その構築を行うのが、「一者の視点からではなく、二者の観点から織りなされる生」*27、すなわち、「二者の情景」なのです。ここでは、あくまでも「二者」、その差異が重要視されています。なぜなら、恋愛とは、絶対的差異を受け入れたうえで始まる新しい世界の構築過程であり、そこにおいて「差異についてポジティヴで、肯定的かつ創造的な経験」*28をすることで、差異に価値を見出すものであるからです。


また、「二者の情景」とは、「〔大文字の〕主体」*29のことでもあります。

バディウの言う「主体」とは、訳注によると、「出来事」が新たな真理の生成を促すとき(すなわち、愛とは「同一的なものをめぐる差異」*30であると直感的に理解するとき)に、その「出来事」に忠実な、その真理の普遍性を体現するものとして、経験的個人を超えて成立する主観性のことです。

重要なことは、その「主体」のなかで、個人は個別性を失って消失するわけではないということです。つまり、恋愛の「主体」においては、ふたりは差異をあくまで保持し、その隣接的関係を保たなければいけないのです。

逆に、「二人の個人がその差異の解消を求め、一者としての合一を目指すとき、それは融合的主体、暗黒の主体」*31となってしまいます。これは先に出てきた「一者の情景」と同じものです。「暗黒の主体」は、「二人であること」*32=「差異があること」によって生まれる世界の無限性を嫉妬によって破壊し、融合的な「一者というフィクション」*33として君臨します。その例を恋愛以外から挙げるとすれば、ナチスによって生み出された「ドイツ民族」だと言えるでしょう。


さて、そうして生まれた「主体」は、「差異というプリズムを通じて世界の展開に触れ」、それにより世界は、自分の「個人的な視界を満たすものとなる代わりに、新たに到来し、誕生」*34します。それが、恋愛における、世界の創造です。差異から世界を創造する主体、それが、「創造的存在」=「二者の情景」=「主体」なのです。

 


回帰する「出来事」
また、バディウによると「主体」を生み出すような「出来事」は、恋愛の過程において「点」として何度も回帰します。逆に、その「点」をたどる過程が恋愛であるとも言えるでしょう。

 

「点」とは、(…)真理の構築の諸帰結が、あなたが「出来事」を受け入れ、それを宣言した最初の瞬間におけるように、根本的な選択をやり直すようあなたに強いる、そんな瞬間です。*35


つまり、「点」にぶつかると、世界は、「出来事」と遭遇したときのように、再創造されなければならないのです。これが、恋愛が過程であり、持続であることの理由です。最初に生み出された世界は完璧なものではなく、不断に再構築されるのです。

 

 

反動的主体
バディウによる恋愛論の最後として、恋愛における困難にも目を向けたいと思います。


まず、「主体」に対置されるものとして、先にも出た「暗黒の主体」が挙げられます。そして、もうひとつ、「反動的主体」*36が挙げられます。これは、同一性と安全に価値を置く主体のことです。それは差異と偶然を恋愛から排除しようとします。


では、なぜこのような主体が生まれてしまうのでしょうか。

バディウは、「愛の生成過程は、主観的な生にとって最も苦痛に満ちた経験だ」*37と言います。それは、その生成過程に内在する困難に起因します。つまり、(乗り越えがたい)差異が生み出す困難です。

その困難に耐えられなくなると、「差異に対して同一性を求める『自我』、差異のプリズムを通じて再構築される世界に対して自らの世界を押し付ける『自我』」*38が力を持ち、「反動的主体」が生まれます。また、その困難を先に避けようとする行動を取る、つまり乗り越え不可能な差異が存在しない関係を事前調整することで偶然を排除することによっても、「反動的主体」は生まれます。

 

 

恋愛とは何か
まとめると、恋愛において問題であるのは、「人が二人であるときに、差異を受け入れ、それを創造的なものにすることができるのか」*39であるということが言えます。恋愛とは、差異と偶然に価値を置き、新しい世界の創造を持続することであると言えるでしょう。

 


ようやく、なぜ初デートで映画を観にいくべきかについて書きたいと思います。結論から述べると、映画が同一性を強いてくるものであるからです。

 

 

見ることの死
吉田喜重は、『小津安二郎の反映画』(岩波現代文庫、2011)のなかで次のように言います。

 

多くの映画監督たちはこうした人間性[(普遍的な人間性)]に期待し依存しながら、作為的にモンタージュされた映像に観客がかならずひとつの意味を読み取ることを信じたのである。*40

 

映画はコマーシャリズムの影響を受けるあまり、おびただしい観客を集めようとして普遍的な人間性という名によって喜怒哀楽をパターン化し、われわれの感情をたえず同一に制御するためにモンタージュ手法を濫用するようになる。*41

 

映画を見るという行為は、一瞬たりとも休むことのない時間の速度にとらわれ、その奴隷と化することでもあった。(…)映画は一方通行的に早い速度で流れる時間に圧倒されて、ついにはひとつの意味しか見出せない危険な表現であり、二十世紀の国家権力やコマーシャリズムが濫用し、悪用したのも、こうした映画における見ることの死であったのである。*42


つまり、映画はひとつの意味=同一性をその鑑賞者に強いるものでありうるのです。

吉田は絵や写真を見るときの、絶えず続く数え切れないほどの無意識の眼の動きによって支えられている視線のことを「生きた眼差し」*43と言います。そこにおいて、視線は自由です。

それに対して、映画を観るときに、視線が、無意識の眼の動きの否定によってひとつの視点に集中するように抑圧されることを「見ることの死」と呼びます。そこにおいて、自由な視線は否定されてしまいます。つまり、自由な読み取りを可能にする、すなわち差異を生み出す視線が否定されているのです。「見ることの死」によって、映画から差異を生み出すことは封じ込められるのです。

 

 

言葉と映像
また、吉田は言葉と映像も対比します。

 

言葉によって喚起される想像力は、われわれによってその言葉が自由に解読されるかぎり、限りなく開かれており、ひとつの意味に集約されることはない。だが映像はそれが示された瞬間、ただちにその意味内容がはっきり伝達され、限定されるあまり、想像力は途絶えて死滅しかねないものであった。*44


言葉は差異を許容しますが、映像はそれを死滅させる恐れのあるものなのです。

 


以上で見たように、「生きた眼差し」で見ることができるもの(映画あるいは映像以外の全部と言えるでしょう)や言葉で表されるものは、意味が自由に開かれており、そこから読み取られるものには多様な差異が含まれているでしょう。他方、映画はそのような差異を封じ込めようとしてきます。ここに、初デートで映画を観にいくべき理由があるのです。

 

 

それでも生まれる差異、それが大事
「生きた眼差し」で見ることができるものや言葉で表されるものをふたりで鑑賞して、差異を認識するのは、言ってしまえば当たり前です。逆に言えば、そこでふたりの差異を認識できないというのは、ありがたくない奇跡でないならば、同一性への感受性だけに脳みそを支配されている状態に陥っているということを示しているでしょう。

一方、同一性を強いてくる映画をふたりで鑑賞して、差異を認識したとすると、その差異は、決定的な、本質的な差異であるということができるでしょう。

同一性に押し込まれたときに、それでも生じるような差異。初デートでそのような差異に出会うことが大切なのです。そして、それは愛の第一の試練とでも呼べるものを引き起こすのです。

 

 

愛における第一の試練
まず、それは、映画という外在的な同一性への圧力に屈せずに、ふたりで差異を認識できるか(ふたりの感想における相違点を認識できるか)という試練となります。

次に、内在的な同一性への衝動に屈せずに、ふたりで差異に価値を置けるか(お互いの感想を頭ごなしに否定したりしないか)という試練となります。

そして、最後に、その差異によって「創造的存在」になることができるか(ふたりの感想が合わさることでそれぞれの頭にもなかったような新しい感想を生み出せるかどうか)という試練となります。


これらは、愛の第一の試練と呼ぶことができるでしょう。この試練は、「最初」と「根本的」というふたつの意味で「第一」です。なぜなら、初デートなのだからもちろん「最初」ですし、それは世界構築そのものであるので「根本的」です。

つまり、初デートで映画を観るというのは、お試し世界構築であると言えます。

その試練をうまく乗り越えられたのならば、その後の恋愛の過程もふたりで歩んでいけるでしょう。逆に、乗り越えられなかった場合、冷静になってもう一度考えてみるべきでしょう。このような判断を生むのが、初デートで映画を観るという行為なのです。

 

 

まとめ
なぜ初デートで映画を観にいくのか。それが試練だからです。ふたりに、差異から始まる世界構築をできるかどうか尋ねるものだからです。その試練を通じて、ふたりは恋愛の過程に飛び込むか飛び込まないかの判断をするのです。


みなさん、初デートでは映画を観にいきましょう。ただし、小津安二郎の映画のような意味が多様に開いた映画ではなく、鑑賞者を泣かせることだけが目的に据えられたような映画を選びましょう。

 

 

愛の世紀

愛の世紀

 

 

小津安二郎の反映画 (岩波現代文庫)

小津安二郎の反映画 (岩波現代文庫)

 

 



 

*1:ここでは、デートとは、片方があるいはお互いに相手に好意を抱いている状態でふたりきりで出かけることと定義します。

*2:ぼくが高校でお世話になった数学教師は初デートで『時計じかけのオレンジ』を観にいったらしいです。ハイセンス

*3:『愛の世紀』p.41(以下同著より)

*4:p.42

*5:p.64

*6:p.43

*7:p.52

*8:p.52

*9:p.52

*10:p.53

*11:p.53

*12:p.44

*13:p.50

*14:p.86

*15:p.153

*16:p.154

*17:p.51

*18:ここに、「法に対する侵犯」(p.135)としての恋愛の性質を認めることができますが、今回は深入りしません。

*19:p.44

*20:p.54

*21:p.66

*22:p.68

*23:p.70

*24:p.71

*25:p.71

*26:p.86

*27:pp.51-52

*28:p.94

*29:p.45

*30:p.45

*31:p.153

*32:p.169

*33:p.169

*34:p.45

*35:pp.76-77

*36:p.169

*37:p.89

*38:p.89

*39:p.82

*40:小津安二郎の反映画』p.61(以下同著より)

*41:pp.61-62

*42:p.74

*43:p.71

*44:p.199

『マノン・レスコー』においてデ・グリュはマノンとセックスをしたのか

※これは大学の仏文学講義の期末課題(「ひとつ仏文学作品を取り上げて自由に論じよ」みたいな課題だった)として提出したレポートです。『マノン・レスコー』のあらすじ等は各自調べてください。また、ファム・ファタルものの起源としても有名なのでぜひ読んでみてください。

 

 

 

 このレポートではプレヴォの『マノン・レスコー』においてデ・グリュはマノンとセックスをしたかどうかについて「caresse」という単語を手がかりにして考えてみる。このレポートにおいては男性生殖器の女性生殖器への挿入という妊娠の可能性を持つ行為をセックスと書き表すこととする。またこのレポートに引用する『マノン・レスコー』のフランス語文はパブリックドメインとなっていてAmazon.jpで無料で入手できる『Manon Lescaut (French Edition)』(ASIN:B005R3TYHK)からのものであり、日本語文は野崎歓の訳で光文社古典新訳文庫から2017年に出版された『マノン・レスコー』からのものである。

 


 まず、なぜ「caresse」という単語に注目するのかというと、日本語文を読んでいる最中に他の小説に比べて「愛撫」という単語の出現回数が多いように思い、「愛撫」という単語はいったいどのような行為を示しているのか疑問に感じて考えているうちに、それはセックスという行為の隠語なのではないかと思い立ったからである。
 

 

 「caresse」という単語はフランス語文では13回用いられている。プチ・ロワイヤル仏和辞典[第4版]で「caresse」を引くと「愛撫,優しく触れること;ペッティング」と書かれており、その中で最も性的な意味であるペッティングが挿入のない性的接触を表す単語であることからも、「caresse」は普通の用法ではセックスを表さないと考えられる。しかし、宗教道徳的考えから性的規制が厳しかった執筆当時の時代背景を考えると、セックスの隠語として用いられた可能性も十分考えられる。

ところで、野崎歓は13回出てくる「caresse」のうち10回を「愛撫」と訳している。また、日本語文における「愛撫」は全て「caresse」の訳語として登場している。

 


 日本語文で「愛撫」という単語が初めて現れるのは「私たちは慎みを忘れて愛撫をかわし、二人きりになるのが」(p.34)という文においてである。これはデ・グリュとマノンの二人がサン=ドニに到着した後の宿での様子であり、後に「御者や宿の主人たちは私たちの様子に目をみはりました」(p.35)と続くように人に見られている状況である。そのような中でセックスをするとは考えられないので、この場面での「caresse」はセックスの隠語ではないと考えられる。

 

 

 また「飛んできて私を抱きしめました。私を千もの情熱的な愛撫で覆いました」(p.65)という文の状況は、姿を消したマノンがサン=シュルピス神学校にデ・グリュを訪ねに来たというものであり、会って即座に、しかも神学校の中でセックスをするという場面はなかなか想像するのが難しい。ここでの「caresse」もセックスの隠語ではないであろう。

 

 

 それと同じ理由で、デ・グリュがG・Mの息子の部屋にマノンと会うために入った時の「私は彼女の腕をふりほどき、愛撫に応えるどころかさも軽蔑したように押しやり、二、三歩あとずさって彼女から離れました」(p.212)という文における「caresse」もセックスの隠語だとは考えられないだろう。

 

 

 以上のように10回登場する「愛撫」のうちほとんどが物語の状況的にセックスの隠語ではないと考えられるものである。

 

 

 そのような中で、セックスの隠語かもしれないと考えられるものが1つだけ存在する。「しかしマノンの愛撫は、この場面が私に残した悲しみをたちまち消し去ってしまいました。私たちは快楽と恋だけからなる暮らしを送り続けました」(p.95)という文は、デ・グリュがマノンの面前でティベルジュに説教された場面の後に続くものである。「快楽」という単語はセックスに通じそうである。

フランス語文では後半の部分は「Nous continuâmes de mener une vie toute composée de plaisir et d’amour.」(p.46)と書かれている。プチ・ロワイヤル仏和辞典[第4版]で「plaisir」を引くと「①喜び,楽しみ;快楽,快感」と書かれており、その中から「喜び」ではなく「快楽」を選んだことには、野崎歓による性的な意味の強調が見られる。

ここでは状況的にセックスをしていても違和感はないが、セックスをしたと断言できるだけの根拠もない。そこで先に引用した日本語文の「マノンの愛撫」に注目してみる。これはフランス語文では「Les caresses de Manon」と書かれている。ここで『マノン・レスコー』冒頭の「彼女があまりに魅力的に見えたので、それまで異性のことなど考えたこともなく、若い娘に少しの注意も払ったことがなかった私なのに」(p.26)というデ・グリュがマノンと初めて出会う場面の一文に注目してみる。この文からはデ・グリュに恋愛経験がなく、それゆえセックス経験もないことが推測される。つまり、デ・グリュがもしマノンとセックスをしていたならば、デ・グリュはマノンとのセックスしか知らないはずである。そのような中で、わざわざ他の「caresse」との差異を強調するために「de Manon」という表現を付け加えることには疑問を感じる。しかし、ここでの「caresse」がセックスの隠語でないとすれば、他の意味での「caresse」、例えば親からのものなどが存在することは十分にあり得るので、他との差異を強調する必要性に疑問は生じない。以上のことから、この場面での「caresse」はセックスの隠語ではないと考えられる。

 


 次に、日本語文において「愛撫」と訳されていない3つの「caresse」に注目してみる。

最初に出てくるのは「Je lui fis mille caresses」(p.10)というデ・グリュとルノンクール侯爵が再会する場面の文においてである。日本語文では「私はあれこれと世話を焼き」と訳されており、状況的にもこれはセックスの隠語ではないと考えられる。

 

 

 2つ目は「Elle n’attendit point ma réponse pour m’accabler de caresses」(p.87)という帰宅したデ・グリュをマノンが出迎える場面の文におけるものである。日本語文では「マノンは返事を待ちもせず、私にさんざん口づけを浴びせました」(p.181)と訳されている。この文に続いて「そして二人きりになると」(p.181)とあることから、「m’accabler de caresses」の時点では周囲に人がいたと考えられ、この「caresse」もセックスの隠語ではないと考えられる。

 

 

 3つ目は「Elle s’approcha néanmoins pour me faire quelques caresses」(p.99)というマノンのよこした女とデ・グリュの会話の場面の文におけるものである。日本語文では「それでも彼女は私のそばに近寄って慰めようとしました」(p.205)と訳されている。この行為はデ・グリュの「ぼくの涙をぬぐいにきておくれ。ぼくの心に安らぎを返しにきておくれ、ぼくを愛しているといいにきておくれ」(p.205)という呼びかけに対してである。このような呼びかけをされて即座にセックスをしようとする人を想像することは難しいだろう。ここでも「caresse」はセックスの隠語ではないと考えられる。

 


 以上より、「caresse」はセックスの隠語としては作品中で使われていないと考えられる。しかし、このことからデ・グリュとマノンがセックスをしていないと考えるのは性急である。そこで最後に、「caresse」以外の観点からこのことについて考えを述べたい。

 


 注目するのは物語の終盤でデ・グリュがマノンと正式に結婚しようとする場面である。なぜ結婚したも同然の暮しをしていたのに、急に結婚する気になったのか。なぜ結婚が必要だったのか。本文中では「ぼくらは二人とも、立派な魂としっかりした心の持ち主だから、宗教の義務を忘れて平気で暮らしていくことは到底できない」(p.286)という理由がデ・グリュの言葉として書かれている。では、結婚することが「宗教の義務」なのだろうか。

ここで『マノン・レスコー』が書かれた時代の性規範に注目してみる。白田秀彰『性表現規制の文化史』(2017)によると、1215年の第4ラテラノ公会議以降、結婚の際に教会の扉の前で司祭の祝福を受けることが宗教的な義務となった。また同書によると「結婚を秘蹟とし性行為を罪としてみるキリスト教においては、配偶者との性行為はやむを得ない罪とされ、許されざる大罪とは、配偶者以外との性行為だ」(p.74)った。つまり、結婚は宗教的な男女がセックスをするために必要な「宗教の義務」だったといえる。そして、それこそがデ・グリュとマノンが教会に結婚を正式に認めてもらいたかった理由であると考えられる。デ・グリュはマノンとセックスをしたかった。しかし、大罪を犯すほどの退廃ぶりではなかった。だから、結婚をしてセックスが許される関係になろうとしたのではないだろうか。

また、このことから結婚前には2人がセックスをしていないということが推測される。

そして、物語が2人が結婚することなく終わったことから、デ・グリュとマノンは『マノン・レスコー』においてセックスをしなかったと考えられる。

 


参考文献
Abbé Prévost『Manon Lescaut (French Edition)』(パブリックドメイン、2011年)
レヴォマノン・レスコー野崎歓訳(光文社、2017年)
白田秀彰『性表現規制の文化史』(亜紀書房、2017年)

 

 

 

追伸

 70点でした。

 

 

 

マノン・レスコー (光文社古典新訳文庫)

マノン・レスコー (光文社古典新訳文庫)

 

 

性表現規制の文化史

性表現規制の文化史

 

 



 

 

ぼくをふった女の子とふたりで台湾(高雄・台北)で食べたものたち

関連記事前編

con2469.hatenablog.com

関連記事後編

con2469.hatenablog.com

 

この前の記事で書いたようにぼくのことをふった女の子とふたりで台湾に行ってきたので、そこで食べたものを時系列順に紹介していこうと思います。4泊5日。高雄、台北、高雄の順です。

1元4円で考えています。値段はかなりうろ覚えです。ご了承ください。

 

 

 

高雄


「鴨肉本」の鴨肉飯と下水冬粉

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ガイドブックにも載っている有名な「鴨肉珍」という店に向かったら「鴨肉本」に名前を変えて移転していた(たぶん。中国語の垂れ幕がかかっていたが読めなかった)。帰国してから調べたら「鴨肉珍」という店はその隣の路地にもうひとつあったらしく、ガイドブックに載っていたのはそちらだった。

 

鴨肉飯には細切れの甘い肉と大きく切られたアヒル肉が載っていた。アヒル肉には甘い味付けはほどこされておらずさっぱりしていた。

 

下水というのは心とか肝とかのことらしい。レバー。臭みはなかった。細切りの生姜がよく合う。冬粉というのは春雨みたいなやつ。同行者と「日本だと春なのに台湾だと冬なんだね〜」という会話をした。もともと量が多い上に、冬粉が汁を吸うのか食べても食べても減らず、いきなり苦境に立たされた。


この3皿で400円くらいだった気がする。

 


「六合夜市」の豆花

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屋台で食べた。注文の仕方が分からずに屋台の前でオドオドしていたら、屋台のおばちゃんが中国語とボディーランゲージで説明してくれたがやっぱり分からなかったのでずっとオドオドしていたら日本語メニューを出してくれた。最初から出してくれ。


豆花というのが豆腐みたいな白いやつで、その上に載せる具を2種あるいは5種選ぶという注文方法だった。2種盛りにして、ぼくはチビタピオカと小豆、同行者は白玉と小豆を選んだ。選んでから、「もっとタロイモとかピーナッツとか台湾っぽいものを選べばよかったね」という会話をした。あとで調べたら台湾人にはピーナッツが人気らしい。前の席に座った人が食べていたが、水で戻している最中の大豆みたいだった。


ひたすらシロップと上に載せた具材が甘かったが、豆花が見た目や食感のわりに甘すぎずに豆の味を残しており、合わせて食べるとちょうどよかった。豆花は木綿豆腐と杏仁豆腐を足して2で割った感じだった気がする。とりあえず、豆の味がした。


量が多かった。もうこれからは甘いもの好きを名乗るのをやめるので勘弁してくださいと思った。


2種盛りで140円くらい。5種盛りは200円くらいだった気がする。

 


「六合夜市」の水餃と酸辣湯

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藍色夏恋』という映画で主人公の女の子の母親が水餃子の屋台をやっていたので食べようということになった。屋台では4人ぐらいの人がとても怖い顔でひたすら水餃子を作っていて注文しづらかった。


台湾では「水餃子」ではなく「水餃」と言うらしい。「餃」の字が書けなくて屋台に書いてある文字を参考にしようとしたら達筆すぎて参考にならなかった。「水餃×10 酸辣湯」と書いておばちゃんに見せたらとても怖い顔をしながらアゴで「席に着いとけ」みたいなジェスチャーをされた。


席で待っていたら、水餃と一緒に謎の液体が入った小皿が来た。ふたりとも水餃子を食べたことがなかったのでネットで食べ方を調べたら、「油に醤油を混ぜろ」と書いてあったので目の前にあった黒い液体を謎の液体と混ぜた。それに水餃をつけて食べたらとてつもなく甘かった。甘いからたぶん謎の液体はゴマ油だろうとふたりで結論付けた。

 

酸辣湯は酸っぱかったが、酸っぱさの奥にやはり甘さが隠れていて、結局甘かった。酸辣湯はそれなりの量があった。


水餃はひとつ20円くらいで、ひとつから注文できる。酸辣湯は80円くらいだった気がする。

 


コンビニで買ったビールたち

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日本で見たことのないビールを買おうということになりコンビニでビールを買った。

 

黄色の方はKIRINが出している「Bar BEER」というもの。

 

青色の方はたぶんヨーロッパからの輸入ビールである「雪山啤酒」というもの。中国語ではビールのことを「啤酒」というらしい。どちらも甘かった。


同行者に「台湾に来た女子大生が必ず飲むドリンクはなんでしょう」と尋ねたら「台湾啤酒!」と返されたので「台湾啤酒」も飲んだ。


3種とも140円くらいだった気がする。


台湾では「ハイネケン」が人気らしく、どこのコンビニでも瓶6本入りのものが売られていた。「ハイネケン」は350ml缶が180円くらいだった。

 


コンビニで買ったコンニャクとシロクマとシカ

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コンニャクはイカ。味が濃い。濃すぎて食べ切れなかった。独特な味がした。買わない方がいい。


シロクマは台湾ではじめて出会った味が薄いもの。天使。マカロニ型のエアリアルかっぱえびせん味。止まらない。


鹿茸酒はイソジンの味がした。不味くはないが、独特な味がする。もしかしたら養命酒に近い味かもしれない。翌日、同行者の発案で牛乳と混ぜて飲んだが、牛乳味のイソジンになっただけだった。


3つ合わせて1000円ちょっとだった気がする。

 


「阿霞焼肉飯」の焼肉飯と魯肉飯

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メモ帳に注文するものを書いて店員に見せようとしているうちに、同行者がボディーランゲージで注文を済ませてしまった。ぼくも言語に強くなりたい。


奥の焼肉飯は「焼肉さん太郎」1.5枚分ぐらいの厚さの肉がいっぱい載っていた。甘かった気がするがそんなこともなかった気がする。とりあえず、台湾の飯は甘い。


手前の魯肉飯は魯肉飯。写真では伝わりにくいが上に載っている大きな肉は大きい。これは確信を持って甘かったと言える。


ふたつで400円より安かったと思う。

 

 


台北


「好公道金雞園」の小籠包

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1階が厨房だけなので入るのにためらうが、気にせず奥の階段を上がれば店員さんが席に案内してくれる。日本語メニュー有り。注文はメニューが書いてある紙に個数を記入して渡す仕組み。

 

小籠包はひとつのせいろに8個入っている。5つで注文したら、おばちゃんにとても真剣な顔で「ひとつ8個!」と言われたが、そのくらいは食べられると思っていたので何が問題なのか分からずに首をひねっていたら、奥から別のおばちゃんが出てきて「ふたりで5つは多すぎる」と流暢な日本語で諭されたので4つにした。


店員さんが小皿と細切り生姜を持ってきてくれるので、小皿に卓上の黒い液体と透明な液体を入れて待機。小籠包が来たら、その液体につけて、生姜を載せて食べる。小籠包がレンゲの1.5倍ぐらいの大きさだったので食べにくかった。

最初は汁が飛び散ったりして上手に食べられなかった同行者が、さすがに16個も食べると最後の方は上手に食べられるようになっていて感動した。

 

中国で食べた小籠包よりも中の具が多かった気がする。


小籠包はせいろひとつで480円くらい。

 

 

「50嵐」のタピオカドリンク

 

日本語メニューがあるから安心。

 

同行者がストローを2回に分けて刺そうとしてこぼしていた。力強く1回で突き刺そう。

 


スーパーで買ったカバラ

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台湾産のウイスキー。複数種類があるが、スーパーで出会った現地の青年に「I like this. 」と力説されたので緑色のやつを買った。一番安かったし。緑色のやつは「コンサートマスター」という名前で、中国語では「山川主席」と書かれていた。誰だよ。


その青年はビールについても力説してくれた。「台湾啤酒 CLASSIC」は日本統治時に生産されはじめたので、アサヒビールと同じ味がするらしい。だから、無印の「台湾啤酒」の方が台湾っぽくていいよと言われた。


カバランは飲み口が優しく、ゴクゴク飲めた。ふたりで二晩で飲み干した。

 

旅行日程の真ん中(かつ移動日前の夜)に買うと持ち運ぶときにとても重くて後悔するのでよく考えて買った方がいい。小さいサイズもあると聞いていたが、見つからなかったので大きいのを買ったが、スーパーから出るときに、レジ裏のガラスケースに小さいのがあるのを見つけた。


700mlで5000円くらい。日本のAmazonでは8000円くらいで売られている。空港の免税店では1000mlのしか売っていなかったが、それは7000円くらいだった。小さいのは1000円ちょっとぐらいだった気がする。

 


[ALEXANDROS]みたいな水

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[ALEXANDROS]みたいな水。

 

コンビニでは800mlで80円とかだった気がする。スーパーでは2Lで100円くらいだった。

 


「老牌牛肉拉麺大王」のジャージャー麺(たぶん)

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注文の際に「牛肉拉麺×2」と書いて見せたらおっちゃんは頷いて去っていき、そのあとこれが出てきた。「台湾のラーメンってうどんみたいだね〜」という会話をしたが、会計の際におっちゃんに「お前らが食ったのはラーメンじゃねえ」とボディーランゲージで伝えられた。あとで調べたらジャージャー麺が名物だったらしいのでたぶんそれ。


ジャージャー麺香川県が泣いて謝るほどにコシがあった。アゴが疲れる。食べても食べても減らない。上に載っている肉みそは案の定甘かったが、ニンニクがかなり効いていて複雑な味わいだった。ぼくたちはやらなかったが、無料で野菜が載せ放題らしく、隣に座っていた青年は麺と同じぐらいの量の野菜を載せていた。実質二郎。


緑色の器に入っているのはスープ。野草みたいな味がした。隣に座っていた青年が最後に一気に飲み干していたのでそれを真似したが、あとで調べると、どうも味変的に麺にぶち込んで食べるという道もあったらしい。


野菜を増していなくても最後の方は苦行に近く、そのあと行こうと思っていた魯肉飯屋にはサヨナラバイバイをした。いや、美味しかったよ。美味しかったけどさ。


写真のは小サイズで130円くらい。

 


「枝仔氷城」のマンゴーアイスとタロイモアイス

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1枚目手前がマンゴーアイスで奥がタロイモアイス。どちらも甘すぎずさっぱりとした味わいで、2月でも冗談みたいに暑い台湾によく合っていた。タロイモアイスはサツマイモアイスみたいな味だった。同行者がアイスをひとすくいで5mmほどしかすくえていなかったので、ぼくがすくい取って食べさせた。


店内では皿に盛られたスイーツが楽しめるらしかった。ホットスイーツがイチオシされていた。誰が食うんだ。


ひとつ120円くらいだったと思う。

 


「鵝肉城活海鮮」

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店に入ろうとしたらおばちゃんに止められ、先にどの海鮮を食うか選べと言われた(気がする)。値段も海鮮の日本語名も書いていない水槽の前にいきなり連れていかれたので首をひねっていると「アサリ食べれる?」「ハマグリ食べれる?」「カニ食べれる?」とまくしたてられ、食べられるので首を縦に振っていたらいつの間にか注文したことになっていて席に通された。


席に着くと「生?台湾?」と詰め寄られたので「台湾」と答えると「台湾啤酒」の大瓶が出てきた。


1枚目と2枚目は頼んでないのに出てきたよく分からないやつ。1枚目はコリコリしていて美味しかったが辛かった。2枚目は甘い肉だった。これは感動するくらい美味しかった。


3枚目はカニ。甲羅の下に卵と和えた野菜があった。カニの足の根もとの殻が外され、甘い卵で包んで揚げられていた。可食部位が少なかったが、とても美味しかった。


4枚目はアサリ。ジャージャー麺の店で出てきたスープと同じ味がした。インドネシアっぽい味な気がする。


ハマグリは出てこなかった。


ビールを追加注文した際に、エロい格好の女性が栓抜きを持って横に立ち「ハニー」と連呼するので、色っぽく栓を開けるサービスでもしているのかなと思っていたら、同行者が応対して追い払ってしまった。どうやら「ハイネケン」を売り歩いていたらしい。


全部合わせて4000円くらい。

 


パン屋で買ったパン

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街中のパン屋のガラス窓からおもしろい形状のパンが見えたので2種類買った。写真のやつは食パンの一番端の部分の身の方に切り込みを入れ、耳の方でキュウリとマヨネーズと溢れるほどの謎のモサモサを挟んだもの。非常に食べにくいが、美味しいことには美味しい。モサモサが多すぎる気はするが。


謎のモサモサはとても甘く、肉の味がするような魚の味がするようなという感じで、桜でんぶの味に近かった。あとでモサモサだけが売られているのを見つけたが、肉鬆という豚肉のでんぶらしい。帰国後に調べたら、台湾でシーチキンの代わりに使われるものらしい。


使われているパンは食パンの端だし、キュウリもとても小さな切れ端が使われていたので、「余った食材で作られたのではないか」と同行者は推理していた。


名前に「徳式」と付いていたが、「徳式」というのは「ドイツ風」という意味らしい。どこが?


撮り忘れたが、もうひとつ「炸彈」というものも買った。こちらの見た目は白いラグビーボールで、ふたつに分けようとしたら中から飛び出したレーズンたちがホテルの床に散らばった。なるほどたしかに炸裂する。中身はレーズンとカスタードクリームの粘度が上がったみたいなものだった。甘くて美味しいが、非常に食べにくく、また口の中の水分がすべて失われた。


それぞれ80円くらい。

 


「梁記鶏肉飯」の鶏肉飯と半熟目玉焼きとタケノコとシイタケスープ

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店に入ろうとしたらおっちゃんに呼び止められ、「先に注文票を書くんだよ」みたいなボディーランゲージをされた。鶏肉飯と半熟目玉焼きが目当てだったのでメニューを指差して注文票に記入してもらった。すると、おっちゃんが「野菜!」と叫ぶので首をひねっていると「タケノコ食べれる?」と聞かれ、首を縦に振ると次は「スープ!」と叫ぶので首をひねっていると「シイタケ食べれる?」と聞かれ、唐突な問答に精神の落ち着きを失っていたぼくは同行者がキノコ嫌いであるにもかかわらず首を縦に振ってしまった。ごめん。


問答が終わると笑顔で席に案内された。


鶏肉飯はあっさりとしていてとても美味しかった。2枚目のように半熟目玉焼きを載せて食べるとさらに美味しかった。


タケノコはエターナルメンマといった感じだった。ぼくはメンマが好きなので一口食べて笑顔になった。美味しい。


シイタケスープはこれまたさっぱりとした味付けで美味しかった。シイタケはぼくが全部食べたのでお詫びに鶏肉を同行者にあげたが、同行者が鶏肉を上手に食べられなかったので、ぼくがほぐしてレンゲに載せて食べさせた。イチャイチャというより介護って感じがした。


とても混んでいたので人が多そうな時間帯は避けるのが吉。11時とか13時に行くとちょうどいいかも。


すべて合わせて500円くらいだった気がする。

 


「蜂大珈琲」

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有名な喫茶店。豆も売っている。

 

ぼくは台湾珈琲を、同行者はグレープフルーツティーを飲んだ。台湾珈琲は酸味が程よくて飲みやすかった。珈琲の果実味というのをはじめて感じたかもしれない。グレープフルーツティーはグレープフルーツの酸味が紅茶と上手く合わさっていてこれまた美味しかった。

 

頼まなかったが、300円くらいでとても大きなケーキが食べられる。


「喫茶店と美術館にはぜったいに行かないようにしようね」と話し合っていたのに喫茶店に入ってしまい、案の定気が付いたら2時間が過ぎていた。


それぞれ500円から600円くらい。

 


パン屋で買ったパン

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新幹線の駅地下にあるパン屋で色がおもしろかったので買ったパン。たぶんドラゴンフルーツだと思うが、甘すぎず、中からクリームチーズが出てきたりして普通に美味しかった。


120円くらいだったと思う。

 

 

 

高雄


「大饗家常料理」

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金があまりにも残っていたので豪遊しようということになり行った客家料理屋。接客してくれる奥さんと娘さんが日本語の勉強中らしく、日本人だと分かると嬉しそうに日本語メニューを出してきてくれた。撮りそこねたのが惜しいが、そのメニューを読んでもどんな料理なのかあまり分からなかった。


1枚目は店の名物大根料理らしい。大根餅の類いだと思う。甘い大根餅をほんのり辛いタレにつけて食べると絶品だった。


2枚目は豚肉のオレンジソース。酢豚のパイナップルがオレンジになった感じ。口に入れるとオレンジの甘さが口に広がり、噛むと柔らかな肉の甘さが染み出してきてこれまた絶品。こういう料理ははじめてだったので驚いていたら、同行者は肉にブルーベリーソースをかけて食べるらしい。なるほど、世界は広い。


3枚目はよく分からないものを頼もうということになって頼んだ「ティラピアの醤油で煮込む」。まずティラピアという魚を知らなかったのとメニューに書かれた「醤油で煮込む」に胸を撃ち抜かれて頼んだ。そしたら奥さんが、「高いよ」と言いながら紙に「300元」と書いた(1200円くらい)。しかし、こちらは散財したかったので笑顔でうなずいていたら「すごいねー」と言われた。

ティラピアはあとで調べたらスズキ目の魚らしい。白身魚。身が柔らかいのにまとまっていて、また、噛むと心地よい弾力がありとても美味しかった。何で煮込んだのかは分からないが、またジャージャー麺の店のスープの味がした。同行者は「魚醤ではないか」と推理していた。


4枚目はカタカナでひたすら長い名前だったという理由だけで頼んだ野菜。細ネギだった。漢字の読みをそのままカタカナにしたらしい。大きいニンニクがゴロゴロ入っており濃厚な味だった。食感も、しっとりしているのにシャキシャキしていてスジが残らないとかいう完璧なものだった。「『マーズアタック!』に出てくる火星人の脳みそみたいだね」という会話をした。

 

写真だと伝わりにくいが、どの料理もかなり量があった。


会計時に腰が抜けたが、2800円くらいだった。

 


コンビニで買ったビール

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甘い。


買ったときに店員が「ストローをいるかどうか」をボディーランゲージで尋ねてきた。同行者がビールをストローで飲むことを好むので、なぜこの店員はそのことを知っているんだと驚いたが、街中をよく観察すると缶ビールにストローを挿して飲んでいる人がちらほらいた。台湾では結構当たり前なのかもしれない。


ひとつ160円くらいだった気がする。

 


冬季だから供給を停止していたホテルのセルフソフトクリーム機

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最高気温29℃なんだが。

 


「果貿来来豆漿」

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朝ごはんとして。台湾旅行最終日にしてはじめて朝ごはんを食べた。


テイクアウト形式で、自分でお盆に好きなものを取っていき会計をする。


1枚目は棒状の天かす。2本が引っ付いていて、パピコみたいに分けっこした。本当に棒状の天かす。食べなくていい。


2枚目はひたすらネギが入っている饅頭。ひたすらネギが入っていた。川沿いのベンチに座って食べていたが、これを食べているときだけ異常に虫が寄ってきた。


3枚目はひたすら野菜炒めが入っている饅頭。これは美味しかった。やっぱりちょっと甘い。2枚目のやつとの見分け方は饅頭の皮に緑色が透けているかどうか。


あとは写真を撮り忘れたが、タロイモクリームが入ったパイみたいなやつとかを食べた。

 

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これは一緒に買った謎の容器に入った何か。

 

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開けて食べてみたら卵焼きを生八ツ橋の記事で包んだようなやつだった。卵の味しかしない。


値段は完全に忘れた。とりあえず安かった。

 

 

 

台湾というと女子大生がInstagramのストーリーに「いっぱい食べるぞ〜」とか投稿して行くイメージがありましたが、実際に行くと2月だと日本との気温差が20℃近くあり、完全に夏バテしてしまいました。おかげで想像していたよりも食べたものが少なかったです。

上では色々と書きましたが、どれもこれも美味いです。そして、安い。食べなくていいと書いたやつ以外は食べた方がいいです。 

告白したらふられたので「その女の子のことを想って過去に作った短歌から選んだ158首」を紙に印刷して本人に渡したら1首ずつ感想をくれた話【後編】

con2469.hatenablog.com

本記事は後編です。未読の方は上のリンクから前編を読んでください。既読の方も復習してからどうぞ。

 

 

導入

取 ラブレターです。
(158首が印刷されたA4用紙9枚を手渡す)
K えっ、重い……。
取 (さすがにKさんでも嫌がるか。悪いことしたな)やっぱり迷惑ですよね。返してもら……。
K 9枚って結構手にずっしりくるんだね!
取 質量。

 

 

太字はぼくの短歌、「K」はその女の子の発言、「取」はぼくの発言、発言中の「取想くん」はぼくのことです。

 

 

では後半戦スタート!

 

 

深緑が青色になるほど遠くとおくに見えるうしろ姿だ
取 山は近くで見ると緑色なのに遠くから見ると青色だなと思って作った歌です。
K わたしたちは今何色?
取 青緑ぐらいまで近づけていたらうれしいです。

 

 

交わらぬ平行線は重なれる唯一の線だ傘をひらけよ
K 重なれるだけでべつに重なってるわけじゃないよね。

 


たそがれに道を行き交う人々がすべてあなたに思えてしまう
K 約束した日以外に偶然会ったことないよね。他の人とは偶然会うことあるけど。

 


鴨川の流れる音がまたねって言ったあの子の声に似ている
K 遅れてごめんって声には似てないの?

 


葉は染まるふたりで海を見るためのブルーシートを捨てられぬまま
K もう雪が降ったね。
取 まだ捨ててないです。
K 四季がそろっちゃうね。

 


かわいいと言いすぎというかわいいと言いすぎたならきみのせいだろ
K ごめん。

 


はつ秋に売れ残りたるスイカバー好いてはくれぬ人をぞ思ふ
K わたしがスイカバー?
取 ぼくがスイカバーです。
K わたし、スイカバー好きだよ。

 


前髪を伸ばした方が似合うよと言えばあなたは前髪を切る
K 前髪伸ばしてるよ! どう?
取 すごく良いです。
K じゃあ切ろうかな。

 


ぎんなんを踏んでくさいというきみの髪からかおるすずらんを嗅ぐ
K 加湿器のアロマ、スズランだよ。

 


枯れている葉っぱをさして紅葉と言うからきみはしあわせなひと
K 幸せだよ。

 


のぞき込む白い絵の具に反射するきみの眼鏡を直視している
K この美術展のチケット、ずっと財布に入れてる。

 


違うちがう眼鏡じゃなくてあくまでも眼鏡をかけたきみがかわいい
K ちがう、ちがう。

 


東山魁夷のあおが反射するきみとぼくとの青色の距離
取 このときはまだ青色でした。
K うそ!? 6時間も一緒に美術館にいたのに?
取 えっ、じゃあちょっと緑がかっていたかもしれないです。

 


ソーセージ切り分けるのが下手だから涙みたいな肉汁がある
K ソーセージだけじゃなくてものごと全般切るのが下手だからなあ。
取 ぼくのことも切れてないですもんね。

 


かたくなにぼくの上着を着ないから風をあたためながら歩いた
K 風さんも寒かっただろうし感謝してたんじゃないかな。やっぱり取想くんは優しいね。

 


死んだのち星ではなくて石ころになってください抱きしめてやる
K 蹴らない? もう蹴らない?

 


前髪が伸びたねなんて触るから割引券をつかいそこねた
取 500円引きがパーになりました。
K 前髪おさわりのオプション料は500円なんだね。

 


甘いもの好きなあなたは苦いものぼくにくれるね恋であるとか
K 恋をあげた覚えは特にない。

 


きみはもう覚えてなくていいからさぼくが短歌にしておくからさ
取 どうせぼくとのことなんかすぐに忘れるんだろうなと思いながら作ったのですが、実際はかなり覚えていてくれてますよね。
K ね! 普段は物忘れが激しいのになぜか取想くんとのことはいっぱい覚えてる。自分でもびっくり!

 


紅葉は寒さに耐えてうつくしいあなたは何に耐えているのか
K 空腹。

 


消えそうな星の名前を当てるより難しいのだ「好き」と言うのは
K じゃあ、わたしは星の名前を当てる担当になる。
取 そこから段階を踏んで「好き」にぜひたどり着いてください。
K え〜どうだろ? わたし、公文式でも算数できるようにならなかったからなー。

 


お互いの肩が触れ合う回数を数えていたら恋をしていた
K 背の高さが違うから本当は肩と肩はぶつからないよね。だから実は恋をしてないのかもしれないね。

 


またねって手を振る今日に中指を突き立てきみに好きだと言った
K 鴨川じゃん。
取 これは電話で1回目の告白をしたときです。
K ふったからわたしが取想くんに中指を突き立てたみたいになっちゃったね。

 


どうしてもきみが眼鏡をかけているすがた見たくて映画に誘う
K 眼鏡をかけてる姿じゃなくてスクリーンを見た方が良いよ。

 


二時間も通話していた驚きを伝えるための通話がしたい
K 分かる。

 


十個あるまちがい探す横顔に間違いもなく恋をしている
K 11個目のまちがいだね。

 


唐辛子みたいになった前髪を直してくれたきみの指先
K 今度は収穫する!

 


映画館出ても眼鏡をかけているきみの映画の主役になりてえ
K わたし、脇役を好きになることの方が多いよ。

 


くだらない話ばかりをしたからさ笑顔だけしか思い出せない
K わたしは思い出そうとするだけで笑っちゃう。なんか楽しいことあったな〜って。

 


増えてゆくRe:Re:Re:はいつまでもきみの心に届かない恋
K 増えすぎて通り過ぎた。

 


「きみとならどんな天気も楽しい」と言うから雨が降るんじゃないか
K 雨でも楽しかったじゃないか。

 


つらいからかわいこぶるのやめてくれもうこれ以上かわいくなるな
K 無理。

 


なにもかも寒さのせいにしてやろうきみの両手はポケットの中
K 全部寒さのせいにすると寒さがかわいそうだよ。

 


駅のトイレで嘔吐しているときに電話をしたくなったら恋だ
取 駅のトイレで嘔吐しているときに電話をしたくなる相手に選んでもらえてとてもうれしかったのですが。
K でも恋ではないよ。けど、うーん、このときの記憶がほとんどないから分かんないや。
取 じゃあ心の奥底で恋をしている可能性もありますね。

 


「ぼくのことどれだけ知ってるんですか」「きみはわたしのことが好きです」
K 楽しそうだなこの会話! まったく覚えてないのが残念。
取 このときにもてあそばれているなあと確信しました。
K もてあそんでないよ! 取想くんのことを考えたら真っ先にこれが思い浮かんだから。

 


次に会う約束をして死ねないねって笑顔がぼくを殺した凶器
K 取想くんが死んじゃったら泣いちゃうからその涙で生き返ってほしい。

 


今とてもしあわせなんて言うからさ食べ終わらないオムライス探す
K どの今もずっと幸せだからずっとオムライス食べてるみたい。人生がオムライスになっちゃった!

 


ロシア語が読めないきみのマヤコフスキーとして宙に浮く恋
取 ここから面と向かって告白してふられた日の歌です。
K 今までいろんな言語を読めるようになりたいなーと思ってたけど、ロシア語は読めるようにならなくてもいいかなーと思った。

 


半年の恋を固めてできたのがコーヒーゼリーあなたがくれた
K そのコーヒーゼリー、2分で選んだ。

 


肩を抱き寄せて歩いた 右肩が左の胸に刺さって痛い
K わたしからも距離を縮めちゃうと取想くんがもっと傷つくことになるかもしれないな、それは嫌だな、ってたまに考える。

 


通過する列車だきみは止めるため投げ込んでみる向日葵の束
K ひまわりくれたよね。きれいだった!

 


Je t’aime. と言えば Je t’aime beaucoup. だと言われて冬の街灯の虹*1
K 泣かないで〜。多い方が良いと思ったんだもん。
取 たくさんの友愛よりたったひとつの愛をください。

 


付き合ってほしいんじゃない「わたしも」と笑ってほしいだけだったんだ
K “I love you.” に “Me, too.” って返すと、「わたしもわたしのことが好きです」って意味になっちゃうらしいよ。
取 屁理屈でごまかさないでください。

 


百利あって一害なしだった笑顔が一害を得てしまう木曜
K そもそも百利あるのが一害だよね。

 


頭から羽根を生やしたきみの手のつめたいしろいやわいなきたい
取 羽根というのはふたつくくりにした髪の毛のことです。
K もう髪切ったから泣かなくて済むよ。

 


「あなたとはキスをしない」に隠された特別を抱きしめて眠ろう
K わたしは眠れないと思う。

 


死ぬことがきみと会えないことになる六月ぼくが死ぬ十二月
K まだ生きてる2月。

 


間違いの選択肢切る方法を教えるぼくは恋をきれない
K わたしは取想くんを全然上手く切れてないね。

 


きみの髪の手ざわりがする堂園昌彦の歌集を読めないでいる
K 読み終わったら貸して!

 


然し君、恋は罪悪ですよ。って書かれた2B鉛筆削る
取 ふられた日にきみからクリスマスプレゼントとしてもらった夏目漱石名言鉛筆に「然し君、恋は罪悪ですよ。解っていますか」と書かれているのを見て「解ってるよ! きみが教えてくれたんだろ」と思いながら作った歌です。
K ひと目見て絶対これあげようと思った。

 


「髪の毛を切ったよ」黒いマフラーを外して月に照らされる雲
取 ここからはふられた日よりあとに作った歌ですね。
K 今度は「前髪切ったよ」かな。
取 そのときはなにを外すんですか?
K 取想くん。

 


対角線上の眼鏡をかけていないきみと目があった気がして
K あってない。

 


千五百兆回ぐらい抱き合ってぼくら地球になってしまおう
K わたしは太陽のままでいいよ。

 

 

おわり。

 

 

おまけ

取 前回もらった感想を記事にしたら30万アクセスを超えました。
K わーみんな暇なんだね! わたしの代わりに期末レポート書いてほしい。
取 記事に対してたくさんの感想をもらいましたが、なかにはきみのことを悪く言うようなものもありました。
K もしかして悪女とか? わーうれしい! 悪女にあこがれてたんだよね。普段面と向かって悪口を言われることがないからうれしい! もっと言ってほしい!
取 キャバ嬢に向いているという感想もありました。
K 会ったこともないわたしの将来について考えてくれるなんて優しい。ありがとうございます!

 

 

 

 

 

やっぱ好きです。

 

 

追伸

 明後日からふたりで台湾旅行に行ってきます。

 

 

短歌つくってます

西村取想 (@N_torso) on Twitter

 

 

これはぼくが恋愛について書いた記事たちです。

con2469.hatenablog.com

 

con2469.hatenablog.com

*1:"Je t’aime." はフランス語で「きみが恋愛的に好き」という意味で、そこに「たくさん」(英語でいう "much" に近い)という意味の "beaucoup" がつくと「きみは友達としてはとても好きだけれども......」という意味になります。ぼくがジャン=リュック・ナンシーの『恋愛について』について書いた記事を読むとそれがなぜなのか少し分かるかもしれません。

告白したらふられたので「その女の子のことを想って過去に作った短歌から選んだ158首」を紙に印刷して本人に渡したら1首ずつ感想をくれた話【前編】

※「選び抜かれてこれかよw」という感想を見つけ、たしかに選び抜いてはないなと思ったのでタイトルを変えました。わざわざ「選んだ」と書いているのはその子を想って半年間で作った短歌が400首ぐらいあるからです。

 

前置き

 実は、ぼくは一昨年の年末から「西村取想」という名前で短歌を作り、毎日1首以上をTwitterに投稿しています。

twitter.com

今回はその短歌にまつわる話です。

 

 1ヶ月前に1年半ほど片想いをしていた女の子に告白をしたらふられました。普通だったらそこでお互いに気まずくなって関係がギクシャクしてしまうのかもしれませんが、ぼくは諦めが悪いというか打たれ強いというかタチが悪いというかなんというかなので、後日その女の子に「その女の子のことを想って過去に作った短歌から選んだ158首」をA4用紙(9枚)に印刷して「ラブレターです」と言って渡しました。その女の子は優しいというかなんというかなので「ありがとう!読んだら感想言うね!」と言って受け取ってくれました。

そしてさらに後日、ふたりでスカイプ通話をしているときに「そういえば感想まだ言ってなかったね。今から言うね」と相手が言ったので、全体に対する感想を言ってくれるのかなと思っていたら、なんと最初から1首ずつ読み上げて感想を言い始めてくれました。それがとても嬉しかったので、その一部をみなさんと共有しようというのが本記事です。

 

太字はぼくの短歌、「K」はその女の子の発言、「取」はぼくの発言、発言中の「取想くん」はぼくのことです。

 

 

ではスタート!

 

 

このからだピーマンのごと切り刻むさすればきみは好いてくれるか

K ピーマンが嫌いだったことないよ。

 


くだらない冗句で笑い合っているきみがいなけりゃ笑わないのに

K わたしはよくひとりで思い出し笑いしてる。

 


きみの住むアパルトマンを見上げてる冴えない雨に打たれながらも

K 下向いた方が雨が顔に当たらなくていいよ。

 


灰色のTシャツ一枚黒ズボン手にはエビアンきみが好きだよ

K あのTシャツ着づらくなっちゃった。

 


コーヒーが苦手だったねそういえば 平たくなったストローの口

K コーヒー苦手!

 


箸を持つきみが見つめるタコわさになりたいぼくはわさびが苦手

K 取想くんがタコわさになったら一緒にタコわさが食べられなくなっちゃうからならないでね。

 


きみの見るきみが可愛くないとてもぼくから見たらとても可愛い

K 笑

 


三日前はじめて寿司を食べたんだ玉子がおいしかった、と笑う

K プリンも美味しかったよ!

 


楽しげに話すあなたの目は琥珀 お好み焼きの底は焦げ付く

K 次は焦がさないようにしようね。

 


金色の液体啜る人中は恋に落込む滝であるのだ

K であるのだ!

 


ぼくたちは世界の隅でキスしよう主演女優は月に譲って

K 地下鉄だね。

 


石ころをきみに見立てて蹴ってみる溝ではなくて恋に落ちてよ

K 蹴られた!

 


夜風が押し出しているカーテンにきみが隠れていてほしかった

K かくれんぼ苦手だからすぐ見つかっちゃうな。

 


使ってる言語がどうも違うのだ「好き」って言葉がとても悲しい

K わたしも違うなーって思った。悲しいね。

 


次に会う約束をして死ねないねときみが笑ってぼくは死にそう

K わたしより先に死なないでね。

 


首ひねるきみの姿が見たいから世界はすべてクイズになった

K このまえ写真屋さんにからだが傾いてるって言われた。取想くんがクイズを作りすぎだから!

 


この恋はまもなく離陸いたしますシートベルトをお締めください

K 着陸した?

 


靴ひもをほどく魔法を覚えたようずくまってるきみの首筋

K だからか!って思った。

 


人生の良薬なのだこの恋はこれほど苦いものであるなら

K コーヒーの方が苦いよ。

 


なめらかなあなたのあごに思春期を赤色として刻み込みたい

K 最近ニキビできたよ。

 


会うまでの不安をすべて吹き飛ばす笑顔がすこし早足で来る

K じゃあ今度はゆっくり歩いていくね。

 


提灯が吊るされている天国できみの口許だけにある星

K ハイネケン

取 いやホクロです。

 


トルネードポテトを探すきみぐるりぐるぐるぐるりぐるぐるりぐる

K おいしいから見つけたら食べてね!

 


人混みのせいにしとこうとりあえず きみの温度を感じてる肩

K よく肩ぶつけちゃってごめん。

 


「夢みたい」つぶやくきみよ目覚めてもスーパーボールはそこにあるのだ

K あのときすくったスーパーボール、飾ってるよ!

 


誰にでも優しいことは罪だよと教えたいのさ 風は吹かない

K 誰にでも優しいのは取想くん?

取 きみです……。

 


「どうして誘ってくれたの」「それはきみのことが好きだからだよ」でキス

K 読んだあとに、でキス〜?って言った!

取 してないですもんね。

 


自分ではない男の名きみが言いこころにあらし来たなら恋だ

K わたしがYくんとふたりで牧場にドライブした話をしたとき?

取 よく覚えてますね。

 


この涙冬が来るまで我慢しようあなたは雪を好きだと言った

K このまえ雪降ったね!

 


きみと結婚したいからまず石油王の娘と結婚します

K 結婚式行くね!

取 これは第2夫人としてきみを迎え入れる計画なのですが。

K 第1夫人と仲良くできるかな?心配!

 


蚊よぼくの血で綴られた恋文を吸ってあなたのもとへ飛んでけ

K わたしたちが遠く離れてたら蚊さん大変だね。

 


最近は映画を楽しめなくなった主演女優ときみが重なり

K わたし、月になっちゃったね。

取 ?

K だって、さっき主演女優を月に譲ったのにわたしが主演女優になっちゃったから。

取 まさかの三段論法。

 


伝わらぬ想いが恋を焦がしてる半導体は熱を生むのだ

K お好み焼きだけじゃなくて恋も焦げるんだね。

 


コーヒーと紅茶を五時間かけて飲むそれでもぼくは友人のまま

K 5時くらいかな〜って思ってたら8時だったもんね、驚いた!

 


誇らしい顔したきみが皮肉だと気がつくまでの二秒を愛す

K わたしもその2秒、好きだよ。

 


どちらかが笑えばつられ笑うから笑顔の永久機関だぼくら

K そうだね!

 


振り返る 手を振るきみが目に入る 急性かわいさ中毒で死ぬ

K 死んじゃったら出棺のとき手を振るね。

 


冗談を風に乗せては見合わせた笑顔はきっと磁石なんだね

K 取想くんと歩いてるとき、わたしよく横向いて笑うなーって思ってた。磁石だったんだね!

 


世界とはあなたと他でできておりあなたに属せなかった今日も

K もっといろんなものからできてる方が楽しいよ。

 


不在票に気づかぬきみのせいで倉庫につみあがってゆく恋が

K 再配達頼まないと!

取 再配達してもいいんですか?

K う〜ん、困るかも。

 


波のおと聞きつつ眠るほっぺたに陰を与える砂城になって

取 これはきみが浜辺で寝ていたときにその顔に日が当たらないようにぼくが三角座りをして陰を生み出していたという歌です。

K ありがとう!

 


須磨浦にわかめブーケがぶちまかれあなたはきっと河童の子孫

取 これは泳げないきみに対する皮肉です。

K 気がつくのに2秒以上かかっちゃった。

 


リンスとかコンディショナーをしていない髪の毛のごと絡み合いたい

K わたし、リンスもコンディショナーもしてないけどわりとサラサラだよ。絡み合えないね。

 


蕎麦のうえたゆたっているすだちより酸っぱい恋と知ってしまった

K 恋って苦かったり酸っぱかったりするんだね。

 


楽しいね灰色のシャツ染め上げるゲリラ豪雨もあなたとならば

K 楽しかった!

 


台風が来たら電話をするからと言ったあなたにかけたい電話

K ごめん、寝て起きたら台風去ってた。

 


その肌に触れてしまえば消えるのにビールの泡はきみをめざした

K このまえ口に泡ついてるよって教えてくれたよね。ほら、消えないんだよ!

 


きみという太陽といた八月の記憶は肌を染め上げたまま

K 今度は太陽になっちゃった!

 

 

おわり。

 

 

追伸

 3時間近くかかって半分しか進みませんでした。今度後半についても感想を述べてくれるそうなので、また同じような記事を書くかもしれません。

書きました。

 

 

これはぼくが恋愛について書いた記事たちです。

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